【帝国編,流血多,反乱】

 ***1***


 
 セインが人間を魔国に案内することはそれほど珍しい行動でもない。
ただその日はいつもと大分異なっていて、仲間の出入りが少ない頃を見計らったように、ひっそりと彼を城内へと導き入れた。
しかもその後、魔族の全員が出入り禁止を言い渡され入り口にはランゼットやギザ、セインに古くから付く従臣たちが辺りを固めていた。

それを遠巻きに見つめる光景ほど不愉快な物もないだろう。
ギーンズもその一人だ。ランゼットやギザは事情を知っているのか、それとも知らずにセインの言葉に従っているだけなのか。その違いは大きい。
後者ならまだしも前者なら到底許せる問題ではない。


これだけ近くにいる存在だと言うのに何一つ知らされず、突然やってきた人間の為に魔国の象徴である城を明け渡す嵌めになるのだから相当の侮辱であった。
「何なんだ、あれ」
城下町から遠めに城を見遣って愚痴を零す。


「王の気まぐれは今に始まった事じゃなかろ?」
町の老婆が軽やかな声で言った気楽な台詞は彼らの神経を逆撫でする。
徒党を組んでぞろぞろと歩いていた彼らの内の一人が、老婆の足を引っ掛けて意図的に転ばせる。
ギーンズの仲間の一人でゼシューという男だった。長身で細身の男からは炎のような赤い殺気が立つ。黒の手袋を嵌めた握り拳で倒れた老婆を殴ろうとして、仲裁に入ったギーンズに止められた。
男の拳から一瞬、爆発音と共に炎が上がる。拳を止めた手の平から煙が上がって辺りに焦げた匂いが漂った。
「八つ当たりする事は無いだろう。仮にも王に仕える俺たちが守るべき住民を傷付けてどうする」
痛みが伴った筈の手を顧みもせず冷静な声でギーンズが諭す。
同調するようにヨイルや他の仲間たちがゼシューの肩を叩いて二人を引き剥がした。
「ババァ、よく聞けや。人間を引き入れる魔族の王がどこにいるっつーんだ。気まぐれで愚かな事をされちゃ堪んねぇんだよッ」
逆立てた髪を撫で付けたゼシューが老婆に向けて指を鳴らす。その途端、彼女の周囲に小さな火柱が立って弾けた。
「ゼシュー。いい加減にしな」
倒れこんだまま身動きできない老婆に手を差し伸べて立たせるのはゼシューと正反対の風貌をした青年だ。大人しそうな見かけに丁寧な物腰、それに反比例するように残忍で鋭い目付きと言葉遣いだった。
「力は適切な使い方をしろ。無駄な体力の消費だ」
「ひよった事言ってんじゃねぇよ。ラス」
背中に足蹴り入れて荒い言葉で返す。振り返ったラスと火花を散らした。

「お主らはまだ子どもなのだな」
そんな二人の攻防にも怖気づく事なく、老婆が言った言葉はその場の全員を凍らせる。
「セインがどんな男かも分かっておらぬ」
笑いながら言う様は、小さな子どもを相手にしているようだった。
「…死ぬ覚悟があって言ってんのか」
ゼシューの脅し言葉に被るように、
「セインがどんな男かはよく知ってるさ。所詮人間に媚を売るしかない王だろ」
ギーンズの冷めた声が言葉を返す。

揉め事かと注目していた住民たちをぐるりと見回して、よく聞こえるように声を張り上げた。
「どいつもこいつもセインに毒されて、まるでただの人間のようになっちまってる。こんな所で暢気に暮らして、人間に媚売って、お前らに魔族のプライドは無いのか?!弱体化していく魔国を見て、何も感じないのかっ!」
意志を問うように強い眼差しで一人一人の目を見ながら告げた。

視線を逸らす者、その場を去っていく者、見つめ返してくる者、反応はそれぞれだ。
今までそうやって宣言した者がいない訳ではない。
だが、今回がいつもと違うのは名指しで批判している者がセインの最も身近にいる側近のメンバーだという事だ。去る者よりも集まる数の方が多く、ギーンズの言葉に注目する者たちは自然と増えていった。

「そりゃ、俺らだって魔族だっていう誇りくらい、ある…。だけど今までだって同じように王を襲った奴はいるけど誰一人、成功してないじゃないか!」
一人の気弱そうな男が言った。人に擬態しているがとても人の形は為していない。中途半端な擬態は余計に彼を半端者にさせる。それでも人の形を選ぶのは、今の魔国の王がそういう姿だからであり、城下町はそういう『人』に擬態した町だからであった。
多くの住民が人間と同じように暮らし、人間と同じ姿を真似た。

「それは貴様らが弱いからだ」
群集の中から声が上がる。
答えたのはギーンズではなく、彼らの視線が声の元へと向けられる。そこにいたのは大きな斧を担ぐ大男だった。鉄のように固そうな筋肉が隆々と盛り上がり、黒々とした毛が全身を守るようにびっしりと生える。縦にも横にもでかい男が大きな口で嘲るように豪快に笑った。
「俺の一振りは一山も切り崩すが、貴様らでは一株が精々だろう!」
もさもさと生えた顎髭が男の口元を隠し更に厳つく力強く見せる。肩に担ぐ斧を地面に下ろすと同時に重い音が彼らの鼓膜を揺さぶって響き渡る。
「怖気づいて返す言葉も無いか。腰抜けどもめ!」
距離を取る住民たちを見回して喝を入れるように大声で怒鳴った。

「お、俺らだって、そのくらい…!」
「っ…馬鹿、言う、なっ!王を倒すなんてっ、不可能に決まって、る!」
反論するようにそう叫ぶ男がいた。その足は小刻みに震え、今にも逃げ出しそうな体勢だった。大男が侮蔑するようにその足元を見つめ、
「弱者はいらん。さっさと去ね」
手で払った。

それでも、逃げ腰の男が歯を食い縛ってその場に留まった。
「無理に、決まって、だろっ…!」
彼の言葉に周囲が一気に騒がしくなり、否定や賛同が入り混じる。


正に一触即発な空気の中。
開門を知らせる鐘が、辺りに鳴り響いた。


それは、客が城を出た合図であり、正門から一直線に伸びるこの道を彼らが通るであろう事を意味する。
数十人の集団が互いを見詰め合い、次いで斧を担ぎ直した男を見つめた。
それから静観の構えを取るギーンズら側近の様子を伺い見る。


道を空ける住民と、大男に賛同し道を塞ぐ住民と。
明確に真っ二つに分かれ、ここを通るであろうセインらを待ち侘びた。



それからほんの数分後だった。
低い唸り声と共に石畳の通路を速い速度でやってくる蹄の音が彼らの耳にも届く。
発達した大腿筋を持つ4足獣が車輪の付いた黒光りする金属の箱を引く。その周囲に同じ獣に跨ったセインとランゼット、そしてギザがいた。
「あれ?ギーンズ?」

問い掛けて、すぐに状況を察するセインだ。
毛に覆われた太い首に巻かれた皮紐を軽く引いて、荒々しい獣を巧みに制御する。通路を塞ぐ住民に視線をやって、すぐに小さく笑みを浮かべた。
「やれやれ。そんなに城下町が気に入らないなら出て行けばいいものを」
呆れた口調で言って身軽に飛び降り、獣の太い角を撫で首の後ろを摩った。頭の大きな獣が大きく口を開け牙を剥き出しにして欠伸を零す。暢気なその仕草は場の緊迫感にはそぐわない行動で、セインの周りにだけ別の空間が広がっているかのようだ。
「提案があるなら聞こうか。ただの不満なら住み良い場所を探せばいい。
今日は大事な客人を連れているのだから、それを知っての事なら反逆と看做すよ」
緩い歩みで対峙する彼らとの距離を縮めていく。
「セイン。私が」
ランゼットの柔らかな口調の進言を、
「部下任せとは情けない。所詮、王座を奪った時もそうなのだろう!」
野太い声が被さって掻き消した。

一瞬の沈黙が走り、次いですぐにセインの笑い声が場を揺らす。

「ふふっ。面白いじゃないか。前王がどんな男かも知らない癖によく言ったものだ。
君こそ、『所詮』後世組なんだよ。弱体化した魔族の筆頭のような低レベルさだ」
「貴…ッ様!」
苛立ち声と同時にセイン目掛けて大斧が振り下ろされる。瞬時に後ろに飛びのいてそれを避けるセインだ。そして笑みを浮かべたまま警告した。
「図体の割りには俊敏だとは思うけど、君には大きな欠点がある」
言って、踏み込んだ一歩は思いもしない切り替えの早さで、大男が次の二手を放つ前に懐へと入り込んでいた。
「簡単だろ?力自慢の単純化した行動は手に取るように分かる」
いつの間に出したのかセインの手には先の尖った細長い小さな武器が握られていた。それが真っ直ぐに男の眼球目前で動きを止める。

仮にも魔国の王なのだから、どんなにぐうたらで情けなく見えようとそのくらいの戦闘技術があったとしても当然のことだ。それでも住民たちにとっては驚愕の姿で、今更のようにセインが魔国の王だという事を再認識することになる。裏を返せば、それだけセインは彼らに戦う姿を見せていないともいえる。

大男と一緒に騒ぎ立てていた住民が一斉に静まって大人しくなった。
「ぐ」
「偶然だって?油断してたから、そう言い訳する気かな」
口調は柔らかで怒ってすらいないセインが、余裕の笑みを浮かべ相手の言葉を奪う。
「次の機会を与えてもいいよ。ただし死んでも知らない」
先ほどと同じように後ろに飛び退いて、距離を置いた。
まるで世間話をするように放った脅しの言葉は確実に相手の動きを止める。今までの勢いはどうしたのかというほど、のろのろした動きで大斧を担ぎ直しセインを睨み付ける。

そのまま、数秒間、微動だにしない刻が過ぎた。


「前王は、立派な王だったよ。僕より遥かに。でも僕の方針とは合わないんだ。僕のやり方が気に入らないなら王を殺して変えるしかない。それだけの事だよ」
唐突に語り出す。
「だけど、君一人でそれは無理だろう。今は大人しく逃げ帰って僕を殺せる機会を待つのが得策だと思うね。仲間を集めるなり何なり」
ふっと。
セインの視線が別の所へと揺らぐ。

住民をぐるりと見回して、
「殺したいならいつでもおいで。それが魔国の為なら僕は歓迎するよ」
なんて事ないように柔らかな笑みを浮かべたまま静かに語りかけた。その余裕のある寛大さに反発を抱いていた住民たちが諦めの色を浮かべて視線を逸らす。

大男が荒い息で鼻を鳴らして背を向ける。集まった人々を掻き分けるように道を去っていった。
その呆気ない幕切れに拍子抜けする住民達だ。
所詮は敵わないのかという失望と、当然だという歓喜が入り混じって彼らの明暗をはっきりとさせる。

そんな空気もお構いなしに、
「行こうか」
大人しく待っていた獣の鼻先を撫でて、ランゼットを振り返った。
いつもと同じように優しげにセインを見つめて頷きを返す。
「あいつらは馬鹿なのじゃ。たまには叱ってやっておくれ」
老婆がにこりと笑えば、セインが苦笑して同意した。彼女に手を振って、通路の片隅で状況を見守っていたギーンズを唐突に振り返る。
「僕は2,3日帰らない。留守を頼むよ」
そう言って、悠然と腕組みし石造りの住宅に寄り掛かっていたギーンズを驚かせた。
「帰らないってどういう…」
「じゃあ」
問い詰める言葉も聞かずに獣を走らせる。ゆったりした速度から一気に加速してあっという間に遠くなっていった。


セインが日頃、乗り物を使う事は少ない。人間が来ている時でも同じように馬に乗っている時もあれば、歩きの時も多い。今回はそれほど急ぎの用なのか、何も言わないセインが恨めしくなる。側近である筈なのに、ランゼットやギザとの違いは何なのか、ましてや老害のような従臣たちにさえ及ばない存在な気がして、余計にざわついた想いを抱く。

その苛立ちを隠すように、
「帰るぞ」
仲間に告げれば、先ほどの老婆が話し掛けてきた。
「セインに歯向かうのは止めておきなされ。身を滅ぼすじゃろ」
「ババァ、まだ寝ぼけた事を言ってやがる」
答えるのはギーンズではなく傍にいたゼシューだった。
「あの程度、誰だってやれんだよ。セインがすげぇんじゃねぇ。斧男が弱ぇんだよ」
ポケットに手を突っ込んだまま背を丸めて顎をしゃくった。
「城下町の住民は『人間』と変わんねぇ。大した力もなく簡単にセインに騙されやがる」
老婆の肩に砂埃で汚れた靴を乗せて、
「舐めた事を言ってんじゃねぇ」
軽く後ろに押した。その衝撃に倒れる事なく踏み堪える老人だ。
「お主らはギギナの伝説を知らんか?外れにある広大な窪地は、魔族が世界を破壊しようとして出来たモノだと言われておろう?古い者は皆おもっとる。あれはセインだと。強い魔族が誕生した時、自然とそういう噂は流れてくるのじゃ。だから止めておきなされ」
セインを擁護して言っているのではなかった。
彼女はギーンズらの身を案じて、あくまでも老婆心の親切からの助言だった。

だが、そんなものも彼らにしてみれば世迷言で大きなお世話に過ぎない。
「王に夢を描くのも結構だがな、俺はトーシ・ル地方に行った事がある。実際に見た感想として、あれはただの自然産物だ。偶々綺麗に円形になっているだけで、中央の巨石がそれっぽく見せるだけだろう。似たような地形はどこにでもある。貴方が知らないだけだ」
慰めるように背中の曲がった老人の肩を叩く。
「失望させて悪かった」
ギーンズが踵を返す。
去っていく彼らを見送る老人の目には何の失望も宿ってはいなかった。むしろ、案じている顔だった。


セインを絶対的に信頼した住民と。
明確に反発する住民と。


以前はそうでもなかった筈なのに、ここ数年はこういった二極化が明確に現れ始めていた。
それがギーンズらの勢いに拍車を掛ける要因のひとつにもなっていた。


勿論、セインがそれを知らない訳はない。
知った上で意図的に煽ったりするのだから余計にタチが悪く、実際の所セインにしてみれば大した関心事でもなかった。






2015.05.22
セインの話はおよそ3ヶ月ぶりみたいです(^_^;)。おひょ。
目下「対等」の方を優先して更新してるのですが、唐突にファンタジーを書きたくなるものでして、お許しを(笑)。
そしてこの話は続くので2を書いてから、そちらに戻ります〜(人ω<`;)。。。





 ***2***



「随分と荒れていたが大丈夫か?」
身を清めた王が薄い羽織一枚の格好で寒そうに腕組をして訊ねた。
ギギナの城内からひっそりと繋がる地下空間に陽が当たる事は無い。澄んだ空気が余計に肌寒く感じ、王が小さく身震いをした。
魔国から戻ってくる際の一騒動を思い出したように険しい表情を浮かべ、裸足のまま円陣の描かれた中央に立つセインを見遣る。
一方の当人はいつもと変わらず落ち着いた様子だった。

「大きな変革が起こるかもしれないね」
脅す訳でもなく軽い調子で答えて小さく笑う。
それを聞いてくらりと眩暈がした。


「…セイン」


咎める声が出るのは当然だろう。
大股で歩み寄って腕を引き、半ば強引に儀式の準備を中断させる。
間近にセインを睨めば、
「僕のせいではないよ」
にこりと笑んで相手の批判を交わそうとした。
もっとも、そんな笑顔に騙される王でもない。
「ふざけるのは大概にしろ。考えあってなら許すが、そうでないなら心底軽蔑するぞ」
深く低い声は男が本気で怒っている事を何よりも物語っていた。常に冷静で声を荒げる事のないギギナ王だが、胸の内は非常に熱く国民思いの正に真正な王だった。
深く刻まれた皺に数多くの苦難が窺え、それでも尚、強い光を宿す目が男の芯の強さを如実に表す。決して屈しない強さが彼の内にはあり、それは魔族や人間といった種族に関係ない魂の力強さだった。

「僕は君を凄く信頼してるんだ。他の人間には言わないよ」
掴まれた腕にそっと手を掛ける。
それは慰めのようでいて、拒絶のようでもあった。
相手の言葉がどんなものであろうと、一度決めた事は決して曲げたりはしない。
揺るぎない目が笑み一つなく真剣な顔で王を見つめる。
「君は国民を捨てて逃げたりはしない。例え何があろうと。だから僕は正直に話すんだ。そんな事は起こらないと思うけど、君に死んで欲しくないから」
「…」
その言葉に、王の眩暈が酷くなった。

ぐらりと世界が傾いた気がして、眉間を押さえたまま目を強く瞑る。
「つまり…、何だ…。大きな変革というのは、そういう可能性も込みか…」
搾り出す声は必死に冷静さを保とうとしているからだろう。無理やり飲み込むように激しい感情を押さえつけて、セインをきつく睨んだ。
「セイン。私は君を買い被っていたのか?君なら力で同属を抑え付ける事など容易いだろう?何故それをせずにそんな恐ろしい事を言えるんだ?」
「…」


答えは返ってこず、一拍の間が空いた。
セインの瞳に空ろな色が宿り、偽りの姿が僅かに剥がれる。それはすぐに常の色に戻り無邪気な明るい色へと戻った。


その一瞬を見逃さない王だ。
「…」
セインの抱く虚ろを感じ取って思わず押し黙る。


「魔国は行き着く所まで行ったんじゃないかと思う。それはもう前王の時代に辿り着いていたのかもしれない。俺が彼を殺した時、彼は虚無の真っ只中にいたんだ。当時の世界は酷く荒れて殺しが当たり前の醜い世界だったが、それでも魔国は突き詰める場所まで到達していたように思える。
人間のそれとは違って、魔国には弱体化か強大化、そのどちらかしか無いのかもしれない」
ふっと王から視線を外して自分の手の中に収まる小さな箱を見下ろした。
「恐らく…」
考えあぐねたように一点を見つめたまま小さく呟いて、無言になった。

セインが何を言っているのか理解できない。
それでも自分より遥かに長い期間を生き、様々な経験をしている事を知っていた。だからこそセインの言葉に重みを感じ、大きな決断の中で下した判断なのだと悟る。

再び顔を上げたセインはいつものセインではなく大人びた表情を浮かべていた。


「このまま続けば俺も同じになる。虚無の中で生きるのは耐えられない事だ」
真っ直ぐに視線を捉えたまま語る言葉は素のセインだ。

極少数にしか見せない素顔で、揺らいだ瞳が茶色という色を失う。
その正体を知っている王がふと視線を逸らし、視界からセインを消した。
「冷静に話してくれ。私は人間なんだ。魔族とは違う。間近にその目で見られて理性を保てる自信は無い」
その言葉に、セインがハッとしたように身を離して軽く頭を振った。

「悪い…。言ったろ。僕は君を信頼してると。君なら大丈夫だと油断してしまうんだよ」
いつもの茶色の瞳に戻ったセインが反省するように項垂れて、王の胸に手を置いた。

厚い胸板から速い鼓動の音が伝わる。
それを感じ取っていたセインがそっと相手の肩に顔を埋める。
「申し訳ないと思ってる。魔国を治めきれないのは僕が未熟だからだ。
僕の魔国にはこれ以上の発展が望めない。でもギーンズの統治する魔国には憧れを感じるんだ。僕とは違った世界を造り上げる事が出来ると思うし、魔族の未来の為にも新しい王が必要なんだ」
「それは本当にそうなのか。セイン。君の思い違いじゃないのか?」
特に怒ったりはしなかった。
王はセインの言葉を受け入れ、慰めるように肩を抱く。

人間で言えば、20代くらいのまだ年若い青年の姿だ。
細身の身体は簡単にへし折れそうなくらい頼りない。とはいえ、実際はそうでもなくその身体には柔軟な筋肉が隠され、どんな相手でも俊敏な動きで瞬殺出来るほどバランス良く鍛えられている事を知っていた。
「私の見る限りではギーンズという魔族は決して次代王に相応しいとは思えないが」
静かな声で吐き出された助言はセインに軽く一笑された。
「僕には分からない。ただ僕は新しい世界を見たいんだ。」
「…その勝手に振り回される訳か」
「そうだよ。でもヴォルディオは僕を許してくれる。何故なら僕が君を信頼するのと同じくらい君も僕を信頼してるからだ」
自信に満ちたその返答に王が大きく笑った。
「憎いくらい清々しいな。怒る気さえ失せた」
セインの髪を子どもにするように掻き混ぜて乱す。それから引き剥がして、
「その為の秘策なんだろう?」
手に持つ小箱に視線を落とした。

セインが厳戒に規制を敷いた城内から持ち出した小さな小箱は何の変哲も無い装飾が施された宝石箱のようだった。
大事なのは箱でなく、その中身だ。
円陣の中央にある石柱の上に箱を置き、丁寧な動作で錠を外す。

真綿にくるまれるように出てきたのは深い赤色の真球だった。
「これを作るのに何十年と要したんだよ。まだ試した事もないけど、僕の血が凝縮された守りの石さ。絶対に破かれる事のない障壁を作り上げる。計算上はね」
一見、ただの赤い石のように見える。どこから覗いても染み一つない深紅が僅かに透明で液体のような揺らめきを宿し輝いた。それはまるで水の撥ねる音すら聴こえそうな不思議な石だった。
「計算上って、大丈夫なのか?」
王の言葉にセインが小さく笑う。
「僕は自分の力が分からないんだ。仕方ないだろう。気が付いたら絶対の壁を作れるようになっていたし、気が付いた時には絶対支配の力を持ってたんだ。どうしようもないだろ?」
つらりと諦めの言葉を言って、布に包まれた石を石柱の窪みに嵌めた。

「これはね、敵意を抱いて領域内に侵入する者にしか効果がない。魔族にしか効かないし何の邪も無い者には無効だ。愚かな事に魔族側に付く人間というのは必ずいるものだから、このことは誰にも言わないように」
「私が死んだら誰も分からないという事だな」
「その時は僕が回収に来るよ」
さらっと返されて、王がセインを恨めしそうにじっと見つめた。
「…冗談だよ。万が一に備えてだよ。大体この石は僕にしか扱えない。
それにギーンズだっていきなり人間の国を攻撃するほど愚かじゃないだろ」
言いながら、
「っ…!」
唐突にセインが手首を切ったから王から驚きの声が上がった。

「下がった方がいい。これから僕の血で結界を張るから」
流れる血が赤から色を変え七色に輝く液体になった。それが本当にセインから流れた血なのかと疑う程、綺麗な色で床に垂れていく。

相当深く切ったのだろう。
円陣を囲むようにぐるりと回っても血が途切れるという事はなく、まるで生きているかのように七色の液体が綺麗な円を描いて始点と終点を結んだ。

「俺の血を飲みたいと言う人間がたまにいるけど、本当に愚かな事だ」
充分なほどの距離を取った王にセインが小馬鹿にした笑いで言った。
「この色を見てどうしてそう思うのか、人間とは本当に不思議なくらい危険を冒したがる」
それはもはや血とは呼べない液体だった。
納めた深紅の石の上で更に深く手首を切ったセインが無表情のまま流れる血を見つめる。

まるでグラスからワインを注ぐように。
手首から血がなみなみと流れ出していく。

セインの目は既に茶色では無くなっていた。
その血と同じように赤や青、表現しようのない美しい色へと変わり、宝石のように透明で鮮やかな七色の光を宿す。
石の上に血が掛かり更に溝から溢れたそれが、石柱を流れ落ちて中央から放射状に広がり先ほど描いた円に繋がった。

「君『も』試しに飲んでみるか?」
差し出すように手を上げるセインの顔に浮かぶのは酷薄な笑みだった。
途端、溢れる血が止まりあっという間に傷口が消える。
「自虐的な事を言うのは止せ。私はセインの血もその目も、全てひっくるめてセインとして信頼している。今更そんな血を見た所で何とも思わん」
腕を組んでセインの行動を見つめていた男から出た言葉は冷静そのものだった。
酷く下らない事のように退けて、
「それで終わりか?」
セインに訊ね返す。

一瞬の後、セインが可笑しそうに小さく笑った。
「まだ序の口だよ。これから城内の至る所を血で囲っていくんだ。そうする事で完璧な結界が出来上がる。そして俺は体力を相当失うから後は頼むよ」
にこりと微笑む顔はいつものセインと同じだ。
ただ口調と雰囲気が違うだけで別人のような印象さえ与える。それも含めて王はセインをよく理解していた。

恐らく、仲間であるギーンズら以上にセインを把握していたと言える。
不思議なもので近くにいる魔族よりも遠い存在である人間の方が遥かにセインの偉大さと強大さを知っていたのである。

「私は君のお守りとして呼ばれた訳か」
王の冗談交じりの言葉にセインが大きく頷く。
「何があってもヴォルディオは俺を守ってくれるだろう?もっとも俺が死ぬ事はあり得ないけど、眠っている間の攻撃に対してはどうなるか分からないからさ。ギギナの為にもね」
軽い足取りで円陣を抜け出し彼の元へと向かう。
目の前で立ち止まり、にっこりと微笑んだ。
「多少の悪戯なら許す。いつもはキスすら出来ないだろ?」
「…何故、私がキスをする必要がある」
呆れた声で返してセインを見つめた。いつもと同じ茶色の目だ。
血の力を使う時以外は制御する余裕がまだあるという事だろう。

そのセインが、人間と同じ姿で。
人間と同じように柔らかに笑った。


「だって君は俺が好きだろう?」



少年のような無垢さで。
淫らに誘う。


大きく胸元の開いた薄い素材の服を羽織るように緩く着る。透けて見える身体が艶かしく見る者を引き寄せた。
裾から覗く長い足が綺麗な線を描き、足先まで完璧な肢体だ。

思わず頭を抱えて眉間を押さえる。
「…そういう事にしておこう」
セインを追いやるように背中に手を置いて先を急ぐ。

そのまま地下空間を後にするのだった。




*****************************************



全ての儀式が終わった時のセインはセインらしからぬ有様だった。
ふらりと傾いだ身体を抱き止めた王は力なく目を閉じたままのセインを意外に思う。

ただその動揺も一瞬で、すぐに人目の付かない場所へと運び入れた。


それから、セインの宣言通り何をしても起きる事の無い深い眠りに入った。
長い睫が揺れる事もなくまるで死んだように眠り続ける。これが人間であったなら、死んだのかと思って墓に入れられてもおかしくない。
そのくらい静かで深い眠りだった。



それであるのに唇は柔らかで肌は滑らかなままだ。
すぐにも起き出しそうなセインの唇を撫でて指で口を小さく開く。
そのまま水を含んで口移しで飲ませた。
反応もなかった身体が小さく震え、こくりと喉が鳴る。

セインにはそんな事をする必要もない。
王自身、それは分かっていた。
だが大量に血を失って眠り続ける相手を見て、何もせずにいられるとしたらそれは人として大切な何かを失っているだろう。


口の端から流れる水を指で掬って唇に付ける。
そのまま口付けをして深く舌を絡めた。



セインが言うように。
ずっと昔から。


物心の付いた頃から。



セインを深く愛していた。
相談相手であるのと同時に、大切な友人であり、かけがえのない存在だった。



「最初で最後かも知れんな…」
優しい声で吐き出された台詞は深い愛情に満ちていた。
セインの言う大きな変革が胸に刺さる。

万が一が起きたらどうするのか。


国民を守らなければいけない使命と。
セインを解放したいという想いが激しくぶつかり合う。
どちらにしろセインが決めた事なのだから、もう既に動き始めているのだろう。


どんなにセインを罵って止めた所で、止まる男ではないのだから。
これが魔国の選んだ道であり、セインが進んでいく道なのだ。

線の細い髪を撫でて額にキスを落とす。



まるで最後の別れのように。



親愛に満ちた長いキスだった。






2015.05.31
うむ…。。その後、ギギナ王がどうなったかは明らかにせずに終わるかもしれません(笑)。
セインって酷い奴だよなぁ。と書きながら思うけど、でもセインにはセインの自由があって、魔族であるセインにもそれなりの方向性が必要なのではないかしらん…(´・ω・`;)。実際、セインはギーンズがそこまで無謀な事をするとは思ってない部分があって、まぁ多少は予測もしてるんだけど、ギーンズが予想外に攻撃的だったと。そしてお子様だったと。
まぁ言ってしまえばセインの見誤りが全ての原因だなぁ…。そしてセインにしてみれば、最終的にはそれすら一つの通過点に過ぎないのだ…(おい。更に酷い…orz)
まぁ…その為の秘策なのです。うん。国民結構助かったんだと思う。多分…(´-ω-`;)


    


 前夜 完