過去,創世編

守る者がいるというのは大きな力になる。
どんな事でも彼がいれば乗り切れると思えるのだ。
この手にある小さな手が耐える勇気をくれる。


そして。

その反面に。



彼さえいなければ。
そう。
彼さえいなくなれば、全てを捨てて自由になれるのだと気付くのである。
この小さな手さえ。



離してしまえば…。




【心の鎖】




「弟の為だと思えば出来るだろ?デリジャ」
太く力強い手が少年の腕を掴んで強引に引き寄せた。無精ひげを生やした汚い男たちが下卑た笑いを浮かべて嫌がる彼を見下ろす。
古びた酒場にチープな葉巻の煙が漂い質の悪い酒の匂いが鼻を突いた。
柄の悪い男たちが集まり夜毎、酒とタバコとギャンブルに溺れる、まさに世の掃き溜めのような場所だ。

「ちょっとお隣に忍び込んで金をちょろまかすだけだ、弟の空腹も紛らわせてやれるし、お前には簡単な事だろ?」
デリジャと呼ばれた少年の耳に臭い息を吹き込んで囁いた。
それは幾度と知れぬほど聞いてきた頼み事という脅迫だった。断れば幼い弟が殴られる。彼を連れて逃げればいいのだ、ただそれだけの事なのにそれが叶わない。
それだけの力が少年には無かった。


「…分かったから離せ」
小さな声で了承する。結局それしかないのだ。
歯を噛み締めて怒りを押えつける。こんな男たちにひれ伏す度に穢れていく気がした。
男が嫌な笑みを浮かべて酒を煽りながらデリジャの頭を叩いた。
「最初から素直に従ってりゃいい。そうすりゃ何も悪いようにはしねぇ、お前らも食わせてやってるだろ」
さっさと行けとデリジャを追い出す。
木製の古い扉を開けば冷めた空気が頬を撫でていく。まるで酸欠に陥った魚のように口を何度も開いて空気を吸い込む。それでも苦しさは無くならなかった。



弟がいなければ、このまま二度と帰ってくる事は無いだろう。
デリジャの黒い瞳が冷めた色を浮かべて細まる。暗い道を鋭く睨み付けて目的の場所へと足早に進む。
こんな男たちに支配されて一生を過ごすのかと思うとおぞましくて身震いがした。いや、彼らにこの先ずっと従うなんて事はあり得ない。いつか必ず弟を連れて逃げるのだから。
デリジャの希望はそれしか無かった。どんな素晴らしい物よりも、ただ自由である事それが全てだった。


薄汚れた羽織を引き寄せて寒さを凌ぐ。
彼らの言うお隣とは売春街にやってくる富裕層の事だ。お恵み等という些細な金額では足りない。
彼らの生活費、いや、弟の生きる糧を得る為にそれを為すのであって、決して彼らの為ではない、そう慰める事で自分の行いを正当化するしかなかった。



汚い店が並ぶ通りを抜け舗装された道に出る。そこから更に進めば活気溢れる華やかな街の灯りが見えてきた。
薄汚い子どもは珍しい物ではなかった。煌びやかな宝石を身に纏う人々が行き交うこの街で客引きをする娼婦や少年など日常茶飯事である。それは表裏一体の関係にあり、汚い子どもなど誰も気にしない。自分と同じように使われている子ども達もここには沢山いるのだろう。必死に大人に取り縋る少年、少女が一人、二人と買われていく。そうする事で回る街だ。
デリジャも皮肉な事に慣れたものだった。服とも呼べない汚れた格好で捨てられた子犬のように通り過ぎる彼らに声を掛ける。一度で掛かる時もあれば、朝まで誰も捕まらない、それどころか2,3日も掛かる時もあった。
それでもあの醜い男たちの下にいる事を考えたら大した事ではなかった。
弟の事さえ考えなければ…。


声を掛ける事に疲れて石畳に座っていると誰かの影が掛かる。
顔を上げたデリジャの目に鮮やかな赤い色が飛び込んだ。

「少年、名前は?」
笑った顔に八重歯が光る。尖った耳に猫のような目、そして長い爪があった。
赤い髪に赤い瞳、隠すつもりもない男の容貌で正体が一目で分かる。


魔族だ。
この一帯に魔族がいる事はそこまで珍しい事ではなかった。
治安も届かない穢れた街だ。街の住民も諦めの表情でただ日々を機械的に生きているに過ぎない。

だが、珍しい事ではないとはいえ人間とは異形のその姿は少年であるデリジャに恐怖を与えるに十分だった。
名乗る声が知らず掠れる。
上手く聞き取れたのか疑問になる程小さな声しか出なかった。
デリジャの体が知らず震える。それを見た男があろう事か頭を撫でた。物心が付いた頃から暴力しか経験の無かったデリジャの頭を優しく、割れ物を扱うかのように撫でたのである。

「少年、今晩お前の言い値で買ってやろう」
魔族の男が優しく微笑む。赤い目が光を帯びて人間ではあり得ない色彩を放った。
それが凄く綺麗で、どんな金貨よりも価値があるように思えた。男が魔族なだけに純粋な何かを感じたのである。それが何なのか、デリジャには分からなかった。
今まで接した客とは全然違う笑みだった。売春街にやってくる富裕層はみな偽善的で中には暴力を振るう為にやってくる客もいるくらいだ。

「さぁおいで」
腕を引かれて連れて行かれる。彼の優しさは本物だった。



貰った金額は1日の稼ぎとしては有り余る程だった。全部を馬鹿正直に渡す必要などない。デリジャは1/3を懐に入れ、残りは路地裏の石畳の下に隠した。これで2,3日はあの薄汚い男達を騙してやり過ごせる。
久々に解放的な気分になっていた。

赤い瞳の男は、どうやら自分を気に入ったらしい。
デリジャがその事に気が付いたのは初めて出会ってから1ヵ月後の事だった。度々会うにしては妙だと感じていたデリジャも些か男の意図に気が付いた。
「ご飯おいしい?」
豪華な部屋に豪華な食事。言う事なしだった。
男のもてなしは毎回1級品で、どの富豪よりも優しく丁寧で心が篭っていた。


魔族に優しさなんて無い。
飽きたら殺すだけ。


それが魔族というものだ。
男の優しさの裏に何があるのか、ただ何の嘘も偽りも男から感じる事は無かった。
「ありがとうございます」
掠れるような小さな声で返す。デリジャの返答はいつも同じだった。
一体何が男を惹きつけるのかデリジャには皆目見当も付かない。会話が弾む訳でもなく床上手でもない。自分との毎夜のどこに満足する要素があるのか、毎回別れ際に残念そうに見送る男が不思議で仕方が無かった。


そんな関係が半年ほど続いたかもしれない。
お金が着々と貯まっていき、デリジャはいよいよ弟を救出して逃げ出す計画を練っていた。といっても弟は常に鎖に繋がれ犬のような扱いを受けていたから、まともに走れないだろう。
何かあってもデリジャ一人では到底力で敵わない。失敗すれば確実に殺される事が明白だった。事を運ぶためにも慎重に方法を考える必要があった。
そんな時に毎回脳裏を過ぎるのは魔族の男だった。魔族なのだから強いのは確実だ。きっと…。頼めば力になってくれるのかもしれない。
そう思う反面、赤い瞳に失望の色が浮かぶのが怖かった。

デリジャにとっては、初めて信用できる相手なのだからそれも当然の感情だった。
それでも。弟の為に、そして自分の為に現状を打開しなければならない。先に進まなければ何も変わらないのだと決意を決める。



だが。
現実はもっと過酷で厳しいものだった。

デリジャの想いなどまるで無視して。




その日。
売春街は光の王国による粛清により破壊された。
偶々東の地方に買出しを頼まれていたデリジャは、夕暮れに戻ってきたが通い慣れた街が存在しない事に気が付く。
いや、気が付くなんてものじゃない。遥か遠くからでも分かる程辺り一帯が火の海だった。白い法衣を纏い、見た事もない数の兵が街を囲む。光に包まれた獣たちが空を飛び回り、空へと散る黒い何かを食べながら炎を吐いていた。
腐敗は全て抹消する。それがこの国の方針であり、また光の王国の理念だった。

叫び声も何も聞こえない。目前には火の海が広がっているだけだ。
デリジャの頭には弟の事しかなかった。自分の息が上がっている事も気が付かず、火の中へと飛び込もうとする。
それを白い法衣の男たちが押えつけた。暴れるデリジャの額に指を突き法衣の男が何かを呟いた途端、デリジャの体から力が抜けていった。
「おと…とが…」
言葉にならず消えていく。デリジャは意識を失った。



無力な自分が憎い。
もっと前に、逃げていれば…。彼に心を取られ、二の足を踏んだ自分の心が許せなかった。




翌日の朝、見知らぬ場所で目覚めたデリジャはその足でそのままかつて街があった場所へと出向いていた。
そこで見たモノはデリジャの生涯を、そして考え方そのものを変えるほど衝撃的なものだった。

焼け落ち、崩れた廃墟に赤い色が映る。
何かが棒に刺さっていた。

まさかという気持ちさえ浮かんでいなかった。

ただ遠目でも分かる赤い色が、穏やかだった気持ちをふと思い起こさせた。
一歩。一歩と近づくにつれ、その正体が何なのか悟る。
明確に認識した途端、足元から崩れていった。
それ以上見ることも近づく事も出来ない。
息が止まり視界が歪んでいった。



一体…、誰が悪いのか。




光の王国の標的は腐敗を無くす事で、魔族もその対象なのだろう。
赤以外にも何体か同じモノが地面に刺さっていた。
彼らは見せしめだった。光の王国の強大な力の顕示と魔族が悪である事の。



デリジャは大声で泣き叫んでいたのかもしれない。
その日の出来事をよく覚えてはいなかった。
ただその日。


辺り一帯が消し飛んだ。
文字通り跡形もなく。建物も死体も草花も何もかも消滅した。
それはその場だけに留まらず、昨日にやってきた兵達も巻き込むほど広範囲に及んだ。

そして、もちろん生き残りは一人もいなかった。






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「今日で何年目だろうな」
何もない丘の上に花を添える。
セピアの髪が柔らかに揺れて頬を撫でて流れていった。七色に輝く目が異質で恐ろしくもあり美しい色を放つ。
鋭い目が風で飛んでいく花を見つめていた。

あの日、デリジャは弟と共に死んだ。


「人間も魔族も住みやすい世界を造ってみせるよ。それが弔いってものだろう?」
鈴を転がすように美しい声が誓いを立てる。
「なぁ、−−−−」
最愛の名前を呟く。


誰が悪いかなんて未だに分からない。
ただ言えるのはこの世界が悪いという事だ。ゴミのように扱われる人間がいて、そして心優しい魔族が魔族であるが為に殺されるという事。
こんな事が許されていい筈が無かった。



簡単な事だった。誰もやらないのなら自分がやればいい。




指を噛む。
赤い血が流れ、七色に変わっていった。地面に垂れたそれは草花を見る間に成長させていった。
「俺は世界を変える。正す者として…。
終わったらまた来るよ。それまでさよならだ」
踵を返す。



それは後に魔国を何百年と統治する事になる男の誕生だった。




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凄くお久しぶりに小説を…若干暗めで、汗汗。
ハロウィンだし、うんうん。
これでも一応グロくならないよう気をつけてるけど、グロかったらごめんなさい〜(^_^;)。
あまり万人受けする話じゃないな、と思いつつ(笑)。

いつも拍手、訪問をありがとうございます!
少しでも楽しめてもらえたら幸いです(*^3^*)


13.10.25