【男前受け,半ファンタジー,やや暗め】

 ***11『おとうと』***

その日のネコは一人行動だった。
ザギヅの言葉に引っ掛かりを覚え弟に会う為だが、さすがにライスを連れて行くほど愚かでもない。一緒に連れて行くよりもケセがいる洋館の方が遥かに安全だという判断だった。


一本道を真っ直ぐに進んでいく。
繁華街の方面へと進みながらいくつかの分かれ道を迷う事なく選び取っていく。歩きながら脳裏にあるのは弟との話し合いが果たして成立するのかどうかだった。

かつて、まだ弟が一緒に行動していた時の事を思い出す。



自分の落ち度で酷い目に遭った後、手が付けられない弟を救ったのはハギという男だった。その男は、弟を一人で待たせるという事を止めたネコが市場に行く度にうるさいほど声を掛けてきた男だった。
軽率で軟派で向こう見ずで。ネコは端っからその男が気に食わず嫌いだった。
だが、弟にしてみれば理想の男だったのかもしれない。

ネコが触れば物凄い剣幕で暴れ回るユウキが、彼だけには心を許していた。
一体、あの男のどこにそんな要素があったのだろう。



ネコには未だに理解出来ない。
強いて言うならば、ネコとは正反対が故に惹かれたのかもしれなかった。



そんな内に『白猫』というグループが出来上がっていた。
ネコが気が付いた時には、既にハギも一員でいつも弟に引っ付いてどこに行くにも一緒だった。その頃にはもう二人の事を認めざるを得ない状態になっていた。
反目しつつもユウキはネコに従う。

それが壊れたのは唐突だった。
ネコにも何が起こったのかはよく分からない。


『大事な話がある』
ハギにそう呼び出され。
気が付いた時には血まみれのハギと寝ていたのだから、訳が分からないのも当然の出来事であった。
その死体の第一発見者はネコだ。
だが、その事件の事は瞬く間に噂になっていた。

どこかの店でもなく、住処でもない。
小さな空き地で血塗れの男と寝ていれば誰かしらの目に触れていてもおかしくない。


その事を知ったユウキの怒りは相当なもので、ネコの弁解も言い訳も一切聞かず、飛び出すように住処を出て行く。それに同調したように他の仲間達も幾人か一緒に出て行った。




あれから直接会って話をした事は無い。
すぐに『赤虎』というグループが形成され、ネコは会う事すらままならなくなっていた。
いや、無理やりにでも会おうと思えば出来ただろう。それをしなかったのはネコにもそれなりの負い目があったからだった。

何も覚えていないネコだが、ハギの事に関しては絶対に違うと言える。
だが、ユウキが負った心の傷が自分のせいではないとは言い切れなくて、二度も傷付ける羽目になった事が、会うのを躊躇わせていた。



考え事をしながら歩いているとネコの目の前に大きな虎の絵が描かれた壁が現れた。そこから先は『赤虎』の敷地である事を明確に主張する路地を更に進んでいく。

そうしてすぐに、『赤虎』のメンバーに出会った。
「ネコが会いに来たとヘッドに伝えろ」
短くその男らに告げる。顔に赤い虎の刺青をした男たちが笑いを浮かべながら唾を吐き捨てた。
「へぇ、あんたがネコかい」
襲い掛かるようにジリジリとネコに歩み寄ってくる。それを動揺もせず平然と眺めるネコだ。そればかりかズボンのポケットに手を入れて見下げるように顎を持ち上げた。
「『白猫』のヘッドとして、あんたらの頭に会いに来てる。話が通じねぇならカガヤって男を連れて来い」
それが合図とばかりに男達が襲い掛かってきた。


ネコにしてみれば、3人くらいは大した数でもなかった。
慣れた動作で襲い来る男達をいなし、急所を的確に突いた。その動作はただの喧嘩慣れではない。まるで習ったかのような確実さで手馴れた動作だっ た。

声もなく男達が倒れ伏す。
小さな溜息と共に、話が通じる相手を探しに道を進んでいった。



*****************************************



「兄さんが自分から来るなんて珍しいね」
すぐにカガヤと出会ったことは運が良かっただろう。思った以上にすんなりと弟と会えてネコは内心で安堵の溜息をしていた。

2,3人の屈強そうな男を連れたユウキがネコの待つ路地裏にやってきたのはカガヤに会ってから30分後くらいだった。来ない可能性も予測していただけに、ユウキの心境の変化に少し驚く。
「で?何の話?」
早速本題に入るユウキに、ザギヅから聞いた話を聞かせる。
「リンは無関係だろ?あんな共通エリアの、それもドクターの所の女をやるなんて、『赤虎』も落ちたもんだ」
ネコの言葉にユウキの目が意外そうに瞬き、それから鋭くなった。

楽園に不釣合いな美しい美貌が憎悪を込めてネコを睨む。
「犯人捜しとはね、身内に甘い兄さんらしいよ」
嫌味を込めてやり返す。
「僕は正直に言ってそんな事を指図した覚えはない。リンなんて眼中にないしね」
腕を組んでネコと同じように、顎を持ち上げる。
ネコの方が遥かに上背はあるが、その見下す高慢な態度はネコによく似ており、さすがの兄弟だ。同種の威圧感があった。
だが、そんな事に怖気づくネコでもない。
「じゃあ、何でお前の部下があそこにいるんだ。リンを狙ってたからだろうが」
「僕が知るわけない。犯人を捜してるなら兄さんが自分で頑張れよ。僕には関係ない。大体、そんな事を言いに来た訳?僕が兄さんを殺したがってるって知りながら、一人でのこのこ来て、そんな事を確認に来た訳じゃないよね?」
僅かに気の立った声でネコに問う。
一瞬の沈黙後、
「お前らしくないからだ、悪いか」
開き直って返せば、ユウキが大げさに呆れの態度を示した。

「で?僕は兄さんを殺せと命じれば簡単に襲わせる事が出来るけど、兄さんはそれでもそんな愚かな事を言ってるの?それとも逃げられる自信でもある訳?」
青い目が細まりネコを見定めるように残忍に見つめる。
「お前なのかお前じゃないのか、それが知りたいだけだ。俺の知ってるお前は昔から変わらない筈なのに、リンに手を出すお前は別人みたいじゃないか。そうじゃないだろ。ユウキ。本当のお前は…」
「うるっさい!うるさいよっ!兄さん!」
癇癪を起こしたように叫んでネコの言葉を奪う。
シャツの裾を捲くって、ネコの目の前に腹部を晒し、指差した。そこには躍動感溢れる赤い虎の刺青が大きく彫られている。
「兄さんの知ってるユウキは『あの時』死んだんだよ。いい加減、自覚して欲しい」
まるでネコの視線から隠すように見せた刺青をすぐに仕舞った。



その理由をよく知っているネコだ。
刺青の下に隠された煙草の押し付け痕がネコから反論を奪う。


押し黙るネコを見てユウキが満足したように背を向けた。
「今日は見逃してあげるよ。僕も兄さんとはそろそろ和解したいとは思ってるんだ。別に『白猫』が欲しい訳でもない。こっちも他の事で忙しいし相互の利益のためにも無駄な争いはそろそろ終わりにしたいしね。あとリンの事は本当に知らない」
チラリと一瞥して、
「兄さんのことは殺したいほど憎いけど、同時にどうしようもないほど愛してるんだ。分かるでしょ?兄弟なんだから」
そう囁いた。


まるで悪魔の囁きのように、ネコの中にその言葉が染み渡っていく。
顔を上げるネコとほんの一瞬、視線を絡めたユウキがすぐに視線を外す。


それから数人の子分を引き連れて帰っていった。



成り行きを見守っていたカガヤが黙りこくったまま見送るネコをちらりと窺う。
慰めるか迷った末に、そのまま何も言わずにユウキの後を付いていった。



一人残されたネコの中に混乱が渦巻く。
弟の指図でなければただの偶然だというのだろうか。

ザギヅの言葉を疑りそうになって、すぐに否定した。
長い付き合いのザギヅが裏切る訳もない。



ハギが殺されたことも。
弟が暴行されたことも。



もっと根本的な所で何かを見落としている気がするネコだ。
少しずつ雁字搦めになっていく錯覚がして、振り払うように踵を返した。




■━━━━━━あとがき━━━━━━■
2014.10.17





 ***12『思えば』***


遠いどこかで悲鳴のような甲高い声が聞こえ、世界が歪む。
視界のどこかで赤いものが飛び散り不思議な感覚を呼び起こした。



顔にも、髪にも、身体にも。
それが飛び散ったような気がした。

唇に何かが触れて、それが何なのか把握する思考さえ残っていない。



『…だったんだな…』
優しい手が髪を撫で通り過ぎていく。宙に浮く白い世界で、その声が深い悲しみと憤りを感じさせた。
『本当に…、残念だ…』

身体の自由が利かず酷い浮遊感と視界の歪みで意識が朦朧とする中、その言葉だけがやけにハッキリと脳内に木霊した。何かを言いたい気がするのに、声すら出ない。



誰かが身体をなぞる。
肩から腰へ、そして鳩尾へ。


何かを描くようにゆっくりと指を滑らせていく。



そういえば、あの時。
誰かがそこにいた気がした。




*****************************************




「・・・コ、ネコ」
聞き馴染んだ名前で呼ばれて意識が急速に覚醒していった。
白い世界に鮮やかな色が溢れ、視界が明るくなっていく。


覗き込む姿が見覚えのある背格好で、
「ライ…ス?」
ここ数日、行動を共にしている名前が一番に思い浮かび口から出ていた。
「寝ぼけてる?俺だよ」
小さな笑いを零したケセが少し残念そうな顔でネコの頬を叩く。
「ネコ!天気がいいよ。久しぶりに一緒に出かけない?二人でさっ」
明るく言って、カーテンを引き開ける。途端に眩しい光が差し込んで思わず顔を腕で隠すネコだ。


開いたシャツから鎖骨が覗く。
いつもはきっちりと首元までボタンが止められているワイシャツが乱れているだけで、やけに扇情的に映った。いや、露わになっているのは鎖骨だけではない。
捲れた裾の隙間からは滑らかな腹筋が誘うように呼吸に合わせて揺れる。その中がどうなっているのか触ったらどんな心地になるのか、まるで禁断の果実のように情欲を擽る。

ネコの素肌を見る機会というのは早々多くはない。人前で脱ぐ事を良しとしないネコはいつだってワイシャツのボタンを上まで締め、シャツの裾はズボンに仕舞い込むという鉄壁さだった。
一緒にいる事が多いケセでさえ、ネコが目の前で着替える姿を見た事は無かった。


ほんの数瞬、ケセの目に鋭さが混じる。
それもすぐに消えて、
「いつまでもベッドにいると襲っちゃうよ」
そんな冗談を吐いた。
顔から腕をどかしたネコが睨んで黙らせる。上掛けを引っ張って体を隠し、
「着替えるから出てけって」
手で邪険に追い払った。
「はいはい。待ってるから早くね」
ケセがドアを締めながらそう釘を刺す。


一人になってようやく身を起こすネコだ。
シャツのボタンを外して、自分の体を見下ろす。


夢を確認するように右胸から左胸、そして鳩尾へと手の平を動かした。
「…いや…、まさかな」
小さく呟いて、否定するように首を左右に振った。
たかが夢だ。事実に虚構が混じった所で何の不思議もない。


素早く着替えて待ってるだろうケセの元へと急ぐ。
それからライスの事を思い出して、まだ寝てるだろう彼に置手紙だけ残して出かけて行った。




ケセは少し特殊な能力を持っていた。
ザギヅがケセをただの無印として見ていないのもそのお陰でもある。

一緒に市場に行けば、ケセを見知った人間が方々から声を掛けて来る。
それからおまけのようにネコに気が付いて、ついでのように挨拶する連中も少なくなかった。前髪を下ろしたネコの存在感は並より下といっていい。その目が隠れるだけで随分と雰囲気が柔らかくなる。
ネコもそれを知ってか、二人で中立区に行く時はケセより僅かに下がって歩く事が多かった。

「ケセ、今日の天気わかる?」
折り畳み式の出店を営む男の一人が黄色い物体をケセに投げてそう訊ねた。
青々とした空を見上げて、
「今日はこれからRの所で売りに行くつもりなんだけど、さすがに雨は降らないよな?」
愚問だったように最後には爽やかに笑う。
それを笑いながら否定して指を一本立てた。
「今日は夕暮れ時に大雨が来るよ。行くなら今すぐ行った方がいいね。折角の果物が台無しになるよ」
その言葉に男が慌てて、ダンボールに詰まった果実を荷車に詰め込む。
「こんな晴れてるのになぁ」
店を畳みながら、信じられないように呟いた。
「今日は凄く濡れた空気を感じるから、こっちに流れてきてると思うよ。多分雷も来ると思う。ここ最近は雨も降ってなかったから水不足も一気に解消されるよ。外れたらごめんね」

最後には茶目っ毛に言って、貰った果実に口を付けた。
皮ごと食べられる柔らかさと、口の中で蕩ける食感に思わず舌鼓を打つ。
「これ、すごい美味しいね。ありがとう」
感想を言うケセに男が誇らしげに親指を立てた。
それからネコに軽く会釈して荷車を押しながら去って行った。

「今日、雨なのか…」
ネコの呟きに。
「そうだね」
ケセが自信をもって返す。
「Zの所に行こうと思ったんだが、早めの方がいいかな…」
「…夕方だよ、降るのは」
下手な返答をすると、ネコなら今すぐにでも行ってしまうだろう。
「この風の状態だと陽が落ちてからかな」
ネコがケセの言葉を疑るって事は無い。
「お前が言うなら確かだな」
何の躊躇いもなくそう答えるネコに満足そうに頷くケセだ。


「こないだ凄い美味しい店を見つけたんだよ、ニコも絶対気に入るよ!」
無印を装う時の名前を呼んでネコの手を無邪気に引く。いつも以上にテンションの高いケセを不思議に思いながら大人しく付き従うネコだった。



■━━━━━━あとがき━━━━━━■
2014.10.20

    


 ***13『静けさの中で』***


その日の夕暮れ時にはケセが言うように雨が降っていた。

ネコがケセと別れたのは太陽が沈む前だったが、予想よりも早く降り始めたせいでザギヅの元へ辿り着く前に雨に見舞われる。それも小雨からあっという間に土砂降りとなり、全身ずぶ濡れ状態でザギヅの屋敷を潜る羽目になった。

ネコが身震いするように両肩を抱いて、薄暗い館の中を進んでいく。
誰かに拭く物を借りればいいと思っていたネコだったがその予想が甘かった事を知った。



自分の歩く靴音しかせず、人っ子一人いない館に嫌な気配を感じるネコだ。
明かりが点いていないだけで尚更寒く感じ、濡れた服の裾を絞った。
静寂の中、水が床に零れ落ちる音が無機質に響き渡り薄気味が悪い。

「ザギヅ!いないのか?!」
思わず大きな声で呼び掛けるも自分の声が響き渡るだけで、僅かな物音すらしない。
まさか住処を変えたという事は無いだろう。
そう思いつつも、あれだけ怒っていたザギヅだ。行動の早い彼が別の住処に移動したとしてもおかしくはなかった。


もぬけの殻の館が俄かに信じられず部屋を見て回る。
1階を歩き回り広い屋敷の一つ一つを確認していく。
部下が一人もいない時点で普通ではない。そのことに一抹の不安を覚えながら、階段を上り三階の回廊へと差し掛かった。
そこでぼんやりと明かりが灯っている部屋をようやく発見した。


「ザギヅ…、いるのか?」
僅かに開いたドアの隙間から顔を覗かせる。
と。

突然ドアが向こう側から大きく開けられた。
「っ…!」
ドアノブに手を掛けていたネコがその勢いで室内に飛び込む羽目になる。
その首根っこを誰かが腕で羽交い絞めにした。
「ザ…ギヅっ!ふざけるのはよせっ!」
男の腕を手で叩く。
首に掛かる腕を外そうともがくネコだったが、そこでふとその腕が褐色である事に気が付いた。


状況を把握しようとネコの動きが止まる。
視線を上げるネコの目の前にはザギヅ本人が立っていた。

男が二人いるのだ。
そう思い至った時、ネコの頭は急速に冴えていき警鐘が鳴った。


「来ると思ってたよ、ネコ」
静かな声で言うザギヅだが、その纏う雰囲気はいつもとは違う。薄らと笑みを浮かべる顔が今にも食い掛かろうとする獣のように凶暴で危険な笑みだ。

ネコの咄嗟の判断は早く、自分の本能に忠実だった。
羽交い絞めする男の胸を肘で思いっ切り突き、力が緩んだ僅かな一瞬の間に身体を下に滑らせ抜け出す。それから距離を取るようにドアの外へと飛び退いた。


僅か数瞬の出来事に見知らぬ男が感心したように口笛を吹く。
あれだけ思いっきり胸を突いたというのに平然としている男の頑強さに舌を巻くネコだ。
相当のやり手だろう。
ネコの警戒心が日頃の比ではないくらい高まっていく。
「生きがあっていいじゃん。『白猫』のヘッドは初めて見たけど好みだわ」
ザギヅの部下にこんな褐色肌の男は見た事も無く、ましてや顎髭の生えた顔に見覚えなどなかった。
それと同時に、最近になって台頭してきたグループがすぐに脳裏に浮かぶ。『赤虎』にちょっかいを出している男がその男だとすぐに悟った。


「どういう…つもりだ」
ザギヅに向けて威嚇の質問をするネコを可笑しそうに笑う。
「何が?ちょっとした悪ふざけだろ?俺の住処にずかずか入ってきたお前が悪い」
答える気は無いらしいザギヅが一歩、足を踏み出す。
それに合わせてネコも一歩後ろへと下がった。
「何を警戒してるんだ?俺とお前の仲だろ?」
一歩ずつ歩み寄ってくるザギヅから逃げるように後ずさる。そうして回廊の手すりに背中が当たりネコの動きが止まると、それを見たザギヅの歩みも止まった。

ネコの全身を好色な目で見回して、
「随分とそそる格好で会いに来たんだな」
舌舐めずりするようにして笑う。
「抱かれにでも来たのか?」
嘲るように言った。
濡れたシャツが肌に張り付き、身体のラインだけでなく肌まで透けて見える。
身体を隠すように襟元を握り締めたネコが、
「気色悪い言い方は止めろ!」
語調を荒くして咎めた。
ザギヅを睨みつけて再度、同じ質問を口にする。
「そいつは誰だ。何を考えてんだ!」
小さな明かりに揺れてネコの黒目が色を変える。それを愉しそうに見つめていたザギヅが、更に一歩、足を踏み出した。
「俺とお前は長い付き合いだが、俺は随分と信用されてないんだな」
自分を笑うように卑屈に笑ってネコに問い掛ける。
何も言わずに睨むネコの警戒心の強さが、ザギヅの中の何かを刺激したのは確かだった。

ザギヅの笑みが深まっていく。



更に歩み寄ろうとするザギヅを見て、ネコが手の平を向けて制止した。
「それ以上近寄るなら話し合いは無しだ。俺はお前を敵とみなして帰る」
警告の言葉を発するネコは真剣で本気の眼差しだ。
見知っているザギヅが見知らぬ他人のようで、そんなネコの動揺を読み取ったように傍らで見てた男が乾いた笑いを零した。
「随分と気の弱いネコちゃんなんだな。逃げると追いかけたくなるもんだろ?」
腕を組んで茶々を入れてくる。ザギヅがチラリと彼を見て、可笑しそうに声を立てて笑った。
「人に懐かない野良猫みたいで可愛いだろ?」
何が可笑しいのか分からないネコを無視して、二人でクスクスと笑いを零す。


その様が。何よりも裏切り行為に近かった。


「気色わりーって言ってんだろうがっ!」
ネコの言葉も笑いを零す二人には素通りで。
「弟は大層な美人だけど、兄貴は違った意味でそそるなぁ。
地べたに這い蹲らせて後ろから無理やり犯してぇ」
顎髭を弄りながら品定めするようにネコを見回してそんな言葉を平然と吐いた。
「ザイード。ネコが益々警戒しちまうだろ」
笑いながら咎めるザギヅに、その本性を見た気がするネコだ。
「お前の考えはよく分かった。俺は帰る」
ネコが背を向けずに階段へと進路を変える。

その言葉にザギヅが笑みを消した。


無機質な冷たい顔で、
「ネコ、お前が悪いんだぜ?昔からそうだ。全部お前が悪い」
唐突に意味深な事を言って、ネコの足を止めさせる。
全く身に覚えが無い。何を言ってるのかすらネコには分からなかった。
「俺が何をしたって言うんだ」
ネコの言葉に、
「因果応報だ、ネコ」
冷たく凍るような暗い声がそう呟いた。


苛立ちと憎しみの篭った視線を向けられて背筋に悪寒が走る。
ザギヅとは長い付き合いのネコだったが、そんな彼を見た事が無かった。



目を瞠るネコに人差し指を向けて、『Z』の文字を空中に描く。
それから、
「俺らは『赤虎』を乗っ取るぜ?『今度こそ』大事な弟を守れるといいな」
そんな脅し文句を言った。
「ッ…!ザギ…ヅ!!」
どういう意味だと問おうとして、ハッとする。


何故、部下が一人もいないのか。
そばにいる見知らぬ男が誰なのか。


『赤虎』を乗っ取ると言った言葉に、それらが符号して一つになっていく。



いてもいられず駆け出すネコだ。階段を物凄い速さで降りて行く。
「『赤虎』は小せぇグループだからな、急いだ方がいいぜ!」
笑いを含んだザギヅの声が上階から掛かった。


静かな館に男の笑い声が響き渡る。
それを背後に聞きながら、守れなかったあの時の記憶が脳裏を過ぎっていた。


どんなにユウキがネコを拒もうと。
『兄弟』である事には変わりが無い。それは一生変わらないものだった。


憎んでると言った口で愛してると言ったユウキを、ネコはどうしても切り捨てる事が出来ずにいる。ユウキもきっと同じなのだろうと思うからだった。『兄弟』だという絆が、どこかで切れずにまだ続いていると感じたからだった。



かつて感じた事の無いような焦りがネコを支配していった。
アスファルトに貯まった水が足に掛かるのも気付かずに降りしきる雨の中、駆けていった。




■━━━━━━あとがき━━━━━━■
2014.10.22

    


 ***14『冷たい、雨』***


ザギヅの館を後にしたネコはそのまま真南に突き進んでいた。
それはネコが知る中では『赤虎』の敷地への一番の最短距離だ。ただそれも晴れていればの話であり、激しい雨が降る日に通る道としては過酷なルートでもあった。

塀の途切れ目から廃墟となった一軒家へと侵入する。誰も住んでいない部屋を通り抜け、窓枠に足を掛けて外へ出る。そこから排水用のパイプを伝って難なく屋根へと登った。
濡れて靴が滑る中、そのまま軽く助走を付けて隣接する塀へと飛び移る。2mはあろう塀からそのままダンボールを緩衝材代わりにして飛び降りた。
日頃のネコであれば、他のルートを選んでいただろう。
だが、ネコは迷いもせずその荒業で最短を通る決意をしていた。

路地を走るのでなく無理やりにでも塀を乗り越え隣の路地へと移動していった。どこに何があるのか、登れる塀なのか、そして降りることが可能であるか、全てを把握しているネコだからこその最短距離だった。そうして道なき道を進み、しばらくすると完全な行き止まりに当たった。
地面にある金属の蓋を開け地下へと降りて行く。


この大雨とあっては人出も少ない。
いや。もう既にザギヅの部下は『赤虎』を落とした後なのかもしれなかった。誰一人として会う事なく地下まで辿り着いた事が余計にネコの焦りを強くしていた。


手で濡れた髪を掻き上げて水を払う。重い服を絞って気持ちを落ち着かせるように軽く一息付いた。
濡れた顔をシャツで拭いて目を擦る。

雨から解放されて僅かに気持ちが落ち付いていく。上がった呼吸を整えて落ち着かせるように胸を幾度か叩いた。


ズボンの後ろポケットから明かりを取り出して暗い地下通路を照らす。

地上で降り続ける雨の音が地下に響き静寂を余計に強調していた。
駆け足で走りながら、あまりの静けさに身震いするネコだ。そろそろ『赤虎』の敷地に入っていてもおかしくない。

地上へと繋がる梯子を昇り、上の様子に耳を傾ける。
激しく降る雨音しか聞こえず、ネコがそっと地上への出口となる蓋を持ち上げた。
周囲を素早く確認し身軽に外へと出る。目の前にある小さな簡易倉庫に身を隠して小窓から辺りを窺った。


静かだった。
何の喧騒も聞えないことがネコの不安を掻き立てる。雨とはいえ、ここまで人手が無いのも奇妙な事だ。

その違和感が、ふと。
強くなる。

それが何なのか突き詰めようとして、その思考が突如、遮られた。
大粒の雨がトタンの屋根に当たり激しい音を立てる。また雨足が一層と強くなり、壊れんばかりの音がネコの頭に響いた。
「くっ…そ…!」
思わず罵り言葉が出る。


目に掛かる髪を払って、水を飛ばす。さすがに濡れっ放しの身体が寒さを訴えて、全身に震えが走った。両肩をさすりながら蹲り耳を澄ます。


どこまでも降りしきる雨の音しか聞えなかった。
「ッ…、ふ…っ」
小刻みに震える身体を抱き締めてじっとしていると。



唐突に、目前で『Z』の字を書いたザギヅを思い出す。



自分の胸に手を当てて、右胸から左胸へ、そして鳩尾へと手を滑らせる。
それから右下へと下りて、何かに気が付いたように目を見開いた。

「最初っから…、そのつもりだったのかよ…」
思わず乾いた笑いを零すネコだ。
あの時、ハギを殺した男はザギヅだったのかと今更のように気が付いて、愚かな自分を笑った。だが、その目的が見えない。
『今度こそ』と強調したザギヅはユウキの暴行事件に関与している事も確かだろう。それでも、その目的が全く見えなかった。



濡れた顔を擦って頭を振る。再び立ち上がり倉庫を出た。
意を決したように路地を進んでいった。




*****************************************




誰にも出会わない事の違和感は一つの可能性を示唆していたが、ここまで来て何も確認せずに帰る訳にも行かず、目前まで見えた『赤虎』の住処へと足を進めるしかなくなる。

『Z』や『白猫』とは違い、『赤虎』の住処は平屋の一軒家だった。瓦屋根の重厚な建物は庭園こそ無いものの、かつての雰囲気を保った美しい家だ。

ネコが直接そこに案内された事は一度もない。
だが、ネコにしてみれば楽園は全てがテリトリーであり、全てが勝手知ったる場所でもあった。
そこに弟のユウキが住んでいる事も当然のように知っていた。



開けっ放しの大きな門を潜り、正面玄関から中へと入る。
まるでザギヅの住処に行った時と同じように。


誰一人そこにはおらず静かなものだった。



長い廊下を進み襖を開ける。畳の敷かれた部屋を通り抜け他の部屋は見向きもせずに一番奥の部屋へと進んでいった。
目の前に大きな虎が描かれた何枚もの襖が現れる。それを両手で開けば。


目的の人物が正座して待っていた。



「まさか本当に来るとはね…兄さん」
白銀の髪に美しい青い瞳がよく映える。稀に見る美貌がネコの水浸しの姿を見て、しかめっ面を浮かべた。
「…ザギヅと…組んでるんだな」
ネコの声は静かで冷静だった。
怒りさえ通り越したような声で問い掛けて、凍て付いた目で弟を見下ろす。
「兄さんはいつだって物の本質が見えてないよ」
小さく笑みを浮かべて湯のみに茶を注いだ。
ネコの目の前にそれを差し出して、
「どうぞ。お兄様」
嫌味のように深々と頭を下げた。


「僕は兄さんが憎いけど、ここに来なければ良かったのに…。本心でそう思ってるよ」
変わらない表情でそう言って飲み物を啜る。
「そんなに僕が心配だった?」
ふっと鼻で笑ってネコを見上げた。
「当たり…前だろうが…」
ネコの搾り出すような言葉を笑って受け流す。
「僕が兄さんを憎くて仕方が無いように、兄さんも僕を憎めばいい。ずっとずっと。ずーっとね。僕はそうやって生きてきたんだから…」
満面の笑みを浮かべるユウキが、ネコの知っている弟とは思えないほど残忍な顔をしていた。
整った顔だけが昔のユウキのままで、後は別の人格が乗り移ってしまったようだ。
「お前も特等席で『白猫』が『Z』に食われるのを見る一人という訳か」
その言葉に一際大きな声を立てて愉快そうに笑っていた。
「鈍い兄さんもさすがに理解したんだね。ザギヅとはもう随分と前からそういう計画なんだ。後はタイミングだけの問題で、僕は兄さんが堕ちさえすればどうだっていいのさ」
笑みを浮かべるユウキにネコも小さく笑い返す。
「大したもんだよ、そんだけ強きゃここでも十分に生きていけるな」
踵を返すネコに、ユウキが腰を宙に浮かせる。
「っ…まさか、帰る気?」
僅かに慌てたユウキを一瞥して、
「帰るに決まってるだろ。『白猫』は俺の仲間だ。俺を待ってる」
来る時と同じように冷めた声だった。
「どういう目に遭うか…分からない訳でもないのにっ?」
何故、今更そんな言葉を言ったのか。
その疑問を一番に感じているのはユウキ自身だろう。


雨の音が二人の世界を壊すように、けたたましい音で瓦屋根に降り注ぐ。



ネコが僅かに悲しい表情をして口を開いた。
「お前が…、本当の俺を知らないだけだ。俺はとっくに堕ちてるよ」
自嘲の笑みを浮かべる。


その言葉の意味が分からず、ユウキが立ち上がる。
ネコが視線を外し去っていこうとするのを、
「どこがッ!兄さんのどこが堕ちてるっていうんだっ!」
叫んで引き止めようとする。
それも虚しく室内に響き渡るだけだった。

「兄さんっ!」
その声に、ネコが振り返る事はなく。
来た道を駆けて行った。



走り続けて随分と時間が立っていた。
雨は一向に止む気配が無く、既にびしょ濡れのネコはそれを気にした風も無く路地を進んでいた。赤い虎の絵が描かれた路地を抜け、自分の敷地までやってくるとようやく足を緩める。

他のグループとは違い、『白猫』は自分たちの敷地を明確に定めてはいない。だから『赤虎』や他のグループとの衝突も多いのだが、ネコだけはどこまでが『白猫』の敷地なのか明確に把握していた。

胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。
荒い呼吸を落ち着かせて、決意を固めたように濡れた前髪を後ろへと流した。
それが『白猫』のヘッドを強調する時の正装でもあった。



道を曲がり、見慣れた路地を進んでいく。
曲がり角を2,3度曲がれば、目の前に数人の集団が目に入った。それと同時に向こうもネコの存在に気が付く。

所々に水溜りができ、路地に赤い色が混じっていた。
地面に倒れているのは間違いなく『白猫』のメンバーで、身動き一つせず生きているのか死んでいるのかさえ分からない状態の者もいれば、小さく呻き声をあげる者もいる。
傷だらけで横たわる彼らが誰なのかすぐに分かるネコだ。『白猫』のメンバーで把握していない顔など一つもなかった。


金属の棒を肩に担ぐ男が歩み寄ろうとして、
「…ネコだ…」
すぐに相手の正体に気が付いた。

フードを被った姿からでも柄の悪さはすぐに判断が付く。派手な刺繍の施された服が黒いコートの下から覗き、腰には何本ものサバイバルナイフがぶら下がっていた。
それが『Z』の部下である事は一目で分かる。既に『白猫』は彼らの手に落ちた後だと容易に推測できた。


ネコの中を言い知れぬ憤りが渦巻き、それはネコを揺り動かす前にあっという間に霧散した。表情一つ動かす事ないまま、男たちの目の前を通り過ぎる。


そこが入り口であったかのように、そこから先は『Z』と『赤虎』の巣窟になっていた。
立っている『白猫』のメンバーは一人としていない。
それにも関わらず、動揺も見せず突き進むネコに彼らの方が圧倒されていた。



「帰って、きやがった…あいつ。マジで来やがった…!」
戦く小さな声がいくつも上がる。
そんな声さえ耳に入っていないように、ひたすら前を見つめるネコは凛々しく気高い存在だった。『白猫』のリーダーに相応しい芯の強さがそこにはあった。


「ネコ…」
中には見知った顔もいる。見知ったどころではなく一緒に食事をした顔もあった。
だが戸惑いを含んだ小さな呼び掛けにネコの歩みが止まる事は無い。



そのまま脇目も振らずに真っ直ぐ洋館へと向かっていった。



■━━━━━━後記━━━━━━■
2014.10.25

    


 ***15『再会』***


その日ばかりは。
廃墟のような洋館が地獄の門のように大きく見える。
風で軋みを立てる壊れた門が、ネコを誘うように小さく開いた。


「戻ってきたんだな…」
塀に寄りかかる男がネコの腕を掴んだ。
顔にいくつかの青痣があり、片目が腫れ血が固まっていた。ネコと同じようにずぶ濡れ状態の彼が痛々しい表情でネコを見つめる。
「…カガヤ…」
「逃げちまえば、…良かったのに」
小さく呟いてネコを咎める。
彼の手をそっと引き剥がすネコだ。
「ケジメを付けなきゃな。ザギヅの手に堕ちるだけの話さ」
吹っ切れたような言葉の軽さだった。


濡れたネコを。
唐突に抱き締めたくなって、それが出来ずに拳を握る。



カガヤとてこんな結末を望んだ訳ではなかった。
それほどまでにユウキの憎しみが強いとも思っていなかった。


「ネコ…」
小さな呼び掛けに、
「じゃあな」
ネコが僅かに微笑んだ。

片手を上げて背を向けるのが、まるで今生の別れのように感じて言葉を失う。
見送るカガヤを振り返る事なく、そのまま扉を開き洋館の中へと入っていった。


「何で…戻ってきたんだ」
小さな声は雨に掻き消され、消えていった。
自分が泣いているのか、それとも雨粒なのかも分からずその場で立ち尽くす。


出来る事など何一つ無く。ただネコが去って行った洋館を見つめるしか無かった。




*****************************************




明かりが煌々と照らされ、館の惨状を目の当たりにする。
入ってすぐの部屋は仲間内の談話室として使用していたが、テーブルが破壊され絨毯は血に溢れていた。
すぐ傍らに倒れるアオイの姿を発見して思わず駆け寄る。首に手を当てたネコの動きが止まった。

他にも幾人か動かない体があった。
仲間を連れて逃げてきたのだろう。

アオイの開いたままの目をそっと閉じさせる。まだ少年らしさを残す体を整えて乱れた服を直した。それから頬に付いた血を拭き取り唇にそっとキスをする。

アオイを身奇麗にしていると、ドアを叩くノック音がネコの耳に届いた。
顔を上げて部屋の奥に視線を向ければ、ドア枠に身を預けたザギヅが腕を組んで待ち構えていた。
顎をしゃくって、
「中に入れよ」
そう誘った。

ザギヅの後を追って大人しく付いていく。
よく知る住処が見知らぬ場所のようで、その館の主がザギヅのような気さえして不思議な感覚に陥っていた。
入った部屋はまだ廃墟となる前に応接間として使用されていた部屋だった。装飾の施された重厚な長テーブルに、同じく細かな細工の彫られた椅子が何脚も並ぶ。壁には破れた絵画が飾られ、洒落た照明が炎の明かりを淡く照らしていた。

「ネコッ!」
「うるせぇっ!!」
ライスの叫び声が響くと同時に、その顔を傍にいた男が張り倒した。
後ろ手に縛られ両肩を椅子に固定されている姿を発見し、思わず安堵する。ライスの隣にワンも同じように拘束されており、何故かシノの姿は無かった。
その事が幸なのかどうかは判断できない。それでも死体でない事が何よりもの救いだった。元々シノは頭は切れるが戦闘は得意ではないのだから、逃げてくれた方が有難い。


そう思って部屋を見回すネコの目に信じられないものが映る。
ザギヅの後ろに従うようにケセの姿があった。初めはザギヅの部下かと素通りしたくらいだ。いつもと同じ穏やかな顔でネコと視線が合ってもそれは変わらないままだった。
いつからなのかは分からない。
だが、弟だけでなくケセまでもがザギヅ側だったという事実に。

打ちのめされそうになる。


よくよく考えればそうだろう。
ザギヅがネコの住処を知る当てとして考えられるのはケセくらいしかいない。一見無防備に見えるネコも自分の住処は極少数にしか教えておらず、他のグループには言った事さえなかった。
ネコが寝床を何箇所も用意している事もそれが理由だった。ザギヅが言うようにリーダーの住処がバレる事は危険なことで、ましてメンバーが常に集まる住処を知られる事は絶対に避けるべき事なのだ。

ケセの裏切りを意図的に意識の外へと追いやり部屋を観察する。
縛られた二人とそれを見張るようにナイフをちらつかせるザギヅの部下が6、7人いる。とても二人を連れて逃げ出せそうにはない。
状況判断の早さはネコが生き延びていく上で身に付けた武器でもある。

早々に諦めてザギヅのいう事を大人しく従う覚悟をするネコだ。
いや、そんな事は戻ってきた時点で予測していた事だった。


部屋には顔見知りの顔もあり、やってきたネコと目が合うと視線を逸らす者や下卑た笑いを浮かべる者など反応も様々だ。だが、それがどうこうという訳でも無い。グループが違うという事はそういう事であり、どんなに親しくした所で何かがあれば敵になる。それがグループというものだった。


「お前が言うように、本当に戻ってきたんだな。律儀だなぁ」
ザギヅの館でザイードと呼ばれていた男がネコに歩み寄ってくる。
男が目の前まで来ても、今度は逃げる事なく受け入れた。
顎を掴まれ上を向かされる。
ネコの濡れた首に舌を当ててゆっくりと舐め上げた。それから強く首筋を吸う。
「気持ち悪い仲間を持ったもんだな、ザギヅ」
ネコの目はザギヅを真っ直ぐに見つめていた。首に跡を付けた男が軽く笑って、ネコの頬を平手打ちする。
「そのうるせぇ口がいつまで続くか見物だぜ」
ザイードの言葉を可笑しそうに笑い返すネコだ。
「今の内に笑ってろ」
言って、背中に仕舞っていた刃物を取り出す。刃渡りの長い切れ味の鋭そうなサバイバルナイフだった。それをネコに見せ付けてからザギヅへと渡した。
歩み寄ったザギヅが睨むネコの頬を優しく撫でる。
「お前に『Z』の文字を刻みたかった。ようやく叶いそうだな」
甘い睦言のように囁いて、ぎらついた目を向ける。

途端、椅子が床にぶつかり暴れる音がした。
「てめぇっ!ネコに手を掛けてみろッ!殺すぞっ!!」
ワンの怒声が響く。
辺りから失笑が起こって、ザギヅやザイードも小さく笑っていた。
そればかりかケセまで小さな笑いを零す。

ライスにはとてもその光景が信じられなかった。何が可笑しいのかも分からない。
あんなにネコを尊敬し大事にしていたケセが、何故ネコの危機で笑えるのか。
ネコの心情はライス以上に荒れているだろう。それにも関わらず気丈なネコが唯一の救いだった。


「ワン、その前にお前を殺したっていいんだぜ?」
ネコの胸にナイフを突き付け脅す。それを見たワンが唇を噛み締めたまま静かになるのを見て、冷たい刃先を下へと降ろしていった。
まるで見せびらかすようにワイシャツの下からボタンを一つずつ飛ばしていく。ネコは一切の抵抗もせず、ザギヅを見つめたままされるがままだった。
全てのボタンが飛ばされ前を留める物が無くなると、今度は刃先で肌に張り付くシャツを捲くった。
隠れていた白い肩が剥き出しになり均整の取れた身体が露わになると、辺りから興奮したような囃し声と口笛が一斉に鳴り響く。

騒々しい連中に、ネコが呆れたように視線を巡らせて小さく鼻で笑った。
「随分と変態趣味なんだな、知らなかったよ」
ザギヅに向かって揶揄すれば、
「言ってろ」
取り合う気もないらしく表情すら変えない。
ネコの冷えた首から肩へと手を掛けて、
「随分、冷えちまったんだな」
ぽつりと呟いた。

左胸へと手が降りていき鼓動を確かめるように心臓の上で止まる。ザギヅの目は至って真剣だ。得体の知れない相手の行動にネコが不快そうに眉根を寄せた。
「本当の目的は何だ?まさか『Z』の文字を入れたいだけで、こんな事をした訳じゃないんだろ?それだけの為だったら相当の愚かもんだ」
問い掛けるネコの目がザギヅの青い目とかち合う。
「いいや。『Z』を入れるのが目的だ。『白猫』諸共お前を手に入れる事がな」
ネコの頬をナイフの腹で軽く叩いて、冗談を言うかのように笑った。
「ふざけんなッ!」
ネコの心を代弁するようにワンが叫ぶ。それと同時に殴られる音がした。何かが折れる音と、苦悶の叫びが部屋に響き渡る。
それを聞くネコを軽い眩暈が襲った。
「ワン、俺は平気だから黙っててくれ」
逆らうのは得策でない。あの二人はその為の人質なのだから。
これ以上の犠牲も出したくなかった。
ネコの切実な言葉に、ワンが怒りを堪えるように顔を背けて俯く。その肩が小さく震えるのを見逃すネコでもない。
ワンだって同じなのだ。目の前で『白猫』が飲み込まれていくのを見ていたのだから、ネコ以上の怒りだったかもしれない。その上、更に自分たちのリーダーが目の前で汚されようとしているのだから耐え難い屈辱だろう。


ワンを見つめていた視線が、ふと、ライスを捉える。
思う以上に強い眼差しが返ってきて、僅かに口角を上げた。
本人が言うように。
案外に強いのかもしれない。それがネコを安堵させていた。


「余所見してんじゃねぇぞ」
ライスを見た事が気に食わなかったようで、ザギヅがナイフで頬を叩く。
「お前があいつに惚れてるからいけねぇんだぜ?俺だってそこまで残酷な男じゃないからな。長い間、待っててやったんだ」
指でライスを真っ直ぐに差して、ネコの胸を押した。
「何…、言ってんだ!」
ネコの否定よりも、ザギヅの言葉に一番驚いたのはライスだろう。
「そんな訳ないじゃないですかっ!」
声を張り上げるも、傍にいた男が持っていたナイフの柄でライスの腹を殴った。
「ッ…ラ…!」
ネコの声は最後まで出ずに途切れる。ザギヅがネコの後ろ髪を掴んで引き寄せたからだ。
「俺のエリアが2箇所も無くなるし、お前を潰すには丁度いい機会だろ。お前の所は人数すくねぇ癖に敷地だけはやたら広い。やるなら今しかねぇ。それに…」
ふと言葉を止めたザギヅが残忍な笑みを浮かべる。ネコを自分の方へと更に引き寄せて、
「無理やり『Z』を刻むのも悪くねぇだろ。お前だってそっちの方がいい筈だ」
言うと同時に。

唇を奪った。
噛み付くような勢いで口内を蹂躙し、苦しさに喘ぐネコの舌を絡め取る。
「ッんぅ…っン、…っ!」
咄嗟に胸を押すもがっちりと固定されて身動きが取れない。
文句を言う口を塞いだまま更に口付けが深まっていく。ネコの抵抗が次第に大人しくなっていった。
観念したように薄く目を開いて相手を受け入れる。合わさる唇の隙間から舌が艶かしく覗き、見る者を惑わすほど扇情的なキスだった。

「ッは、…っ満足したか?」
唇を離すザギヅにネコが息を乱しながら問う。その顔には小さな笑みが乗っていた。
「まさかザギヅがそこまで俺を好きだったとは気付かなかったよ。悪かったな」
ネコの続く言葉は形だけの謝罪だった。上目遣いにザギヅを見つめて妖艶に笑うその姿は、これ以上にないほど侮蔑的で高飛車だ。


二度目の平手打ちが飛んだ。
それでもネコの顔には可笑しそうな笑いが乗る。
口の端から血が流れるのを舌で見せ付けるように舐め取って、
「犯りてぇならやればいい。ずっとしたかったんだろ?」
顔を斜めに持ち上げて流し目で誘った。
剥き出しのヘソから指を這わせて首筋を撫でる。ネコの明らかな挑発行為に、ザギヅの眦がきつく釣り上がった。
「本当に腹が立つ野郎だな…」
ザギヅの低い呟きは聞くだけで底冷えしそうな声だ。

「やっちまえよッ!」
ザギヅを囃し立てる声が一斉に掛かる。


ネコが不敵な笑みのまま、ザギヅを見つめていた。



    


 ***16『憎しみという名の愛』***


囃したてる周りの声が全く聞えていないかのように、小さな溜息を付いたザギヅがネコからそっと離れる。
静かになる部屋をさっと見回して、傍らにある椅子に腰掛けた。
ナイフで自分の腕を叩きながらネコを見遣る。
「本当の事を言おうか。お前も『白猫』も手に入れようと思えばいつでも出来たんだぜ?それをしなかったのは本心からお前との友情関係を大切にしてたからだ。そのくらい分かんだろ?」
冷静さを取り戻した静かな声だった。

『Z』と『白猫』ではその構成員の数が圧倒的に違う。今まで友好関係だったのが不思議なくらい、『Z』は巨大で『白猫』は小さかった。その気になればもっと前に落とせた筈で、わざわざユウキと組む理由も無ければネコと親しくする理由も無かった。

ザギヅがもう一度、大きな溜息を付く。
「お前がハギに薬を盛られた時な…、俺は市場に偶然いたんだ。支えられる程酔っ払うお前が珍しくて後を付けた。そしたらハギに襲われてんのが見えて、咄嗟に助けに入ったんだよ。お前はまず俺に感謝しろ。」
腕を叩く手が止まる。
「それが悪かったな」
青い瞳がネコを見つめたまま無言になった。

ザギヅが。
何を言いたいのか頭の片隅で薄らと悟っていた。
恐らく、それが本当の目的なのだろう。


諦めの気持ちが沸き起こる。
他の事など、どうでもよくなる程の深い喪失感がネコを襲った。


腕を叩いていたナイフの切っ先をネコへと真っ直ぐに向ける。
「お前の身体にしっかり刻まれた証を見た時、俺の中で全部ぶっ壊れた。お前に抱く感情が何なのか分からなくなる程、な」
静かな語調の中に、言い知れぬ憎しみの感情が宿るのを感じた。空気を震わすような底知れぬ深い闇を抱えた声が、そう言うのをどこか遠くで聞くネコだ。
「なぁ!」
唐突に振り返って、
「お前らはこいつを仲間だって言うが、ネコの本当の名前さえ知らないんだろ?」
ワン達に問う。
「だからっ…!何だ!」
間髪入れずに怒鳴り返すワンを一笑して愚か者を見るかのように目を細めた。
「知らねぇっつーのは幸せなもんだ。こいつは…」
口にするのも躊躇うようにネコを見る。
光を喪わないネコの目がザギヅを勇気付けたように、ザギヅの声に力が入った。
「こいつはあの三大現主の一人、シュトラス一族の息子なんだぜ?!」
周りを見渡しながらそう叫んだ。


その言葉に驚くのはネコではなく周囲だった。
激しいどよめきが部屋を支配して、一瞬にして凶悪な空気が場を取り巻いた。
「ザギヅ!殺せよッ!」
一人が大きな声でそう叫ぶ。
「そうだ!殺せっ!!」
それに同調したように、幾人かが殺せ殺せと騒ぎ立て始める。

シュトラスの名を知らない者は存在しないだろう。
資源から武器まで、あらゆるものを牛耳る彼らは国の権力者とはまた別格の扱いであった。上層部でさえ三大現主に逆らう事が出来ず、彼らは国とは別の次元で絶大な権力を誇っていた。
広大に繋がる路地裏自体がかつての権力者が作り上げた逃げ道であり、それも今やただの廃墟となった街である。それだけでもその力の絶大さが分かるというものだった。

それ以上に。
『血だまりの楽園』に住む者にしてみれば最大の天敵だった。度々やってきては強制的に路地を解体し、生きている住民がいれば強引に奴隷として売り払っていく横暴さだ。住民の人権など彼らの意識には全く存在しない。圧倒的武力で荒らすだけ荒らして去っていくのである。
彼らの前では為す術も無く、ただ逃げるしかない。
そんな目の敵の存在が目の前にいるというのだから、彼らが殺気立つのも当然の事だった。


ネコが何も言わずザギヅをただ見つめる。それを淡々とした表情で見つめ返すザギヅだ。
殺せコールが支配する部屋を見回して、手を挙げ彼らを制する。

「俺も元々は高級住宅街の出の者だった。楽園ではそれさえ羨望の的になるだろうが、実態は違う。俺はあそこの世話係だったんだよ。つってもただの馬の世話だけどな。奴らにしてみりゃ人間より馬の方が遥かに価値が高い。なぁ?ネコ」
優しくネコに問い掛ける。
敢えて訊ねるザギヅを睨み返すしか出来なくなった。
「ある日だ。馬が酷く体調を崩した。奴らと来たら、その馬の世話をしてた兄貴の両腕を切断しやがった。『こんな使えない手は要らないだろう』ってな…笑える話だ」
声を立てて笑う。静まり返った部屋で、誰一人笑ったりする事はなかった。それが逆にザギヅの憎しみの深さと不気味さを引き立てる。
「後で知った事だが馬には元々欠陥があってそれが原因で病弱だったんだよ。食事も毛づくろいも蹄の掃除さえ、俺らに落ち度は全く無かったんだ。そいつが死んでからはもっと悲惨だった。責任を取った両親は殺され、兄貴は目を潰された。それから俺らはゴミ捨て場に捨てられたんだぜ。
信じられるか?俺の見てる目の前で兄貴はゴミ処理機に潰されたんだ。俺があそこから逃げられたのは本当に運が良かっただけだ」


誰かが死んだ夜のように。
沈痛な静けさが場を支配していた。


「俺がシュトラス家を憎む理由がよく分かっただろ?」
ザギヅが立ち上がり、ネコへと近づいていく。
「何か弁解があるか?」
ナイフでネコの顎を持ち上げて、静かにそう訊ねた。
緩く首を横に振るネコだ。
「知らなかった。そう言ってもお前の憎しみは癒えないんだろ?」
「あぁ」
ナイフがゆっくりと首から下がり薄い傷を付ける。
「お前だってシュトラス家が嫌いで逃げてきたんだろ?
そんなお前だから大事にしてきたんだ。諦めて大人しく俺のモノになれ」

そう言って、右胸に刃を当てる。
「嘘を言うんじゃねぇっ!ネコのどこにそんな印があるって言うんだッ!」
ワンの悲痛な叫び声が行為を咎める。
胸にナイフを当てたまま、ザギヅがそちらに視線を向けた。
ネコの白い胸には何の印も無い。そればかりか何の刺青さえない綺麗な身体だった。

ザギヅが確信を得ているようにワンの言葉を鼻で笑う。
「『白猫』の刺青さえねぇのに、シュトラスの証だけはちゃんとあるんだよ、こいつには。あれだけ外見的特徴を継ぐ弟には無いのにな!皮肉なもんだ」
最後の台詞はネコに向かっての言葉だった。
「まさか…、ユウキをやったのはその為か?」
搾り出すような小さな声だった。
「あぁ。お前と出会ってすぐ弟の存在に気が付いた。あの銀髪に青い目だ。忘れる訳がねぇだろ。だから確認したんだよ」
ザイードをちらりと振り返る。
その視線を受けて、彼が下品な笑いを浮かべて思い出すように顎を摩った。
「あれはいい体だったなぁ。何より殴った時の顔が最高にいい。怯えながら喘ぐ様は大した淫乱だったぜ」
「貴…様ッ…!」
飛び掛ろうとするネコを抑え付けたザギヅが、耳元で小さく笑う。
「シュトラスの人間を犯してるみたいで中々面白い見物だったぜ?」
ネコを更に煽って背中を優しく撫でた。
「大人しくしてろ。仲間が殺されてもいいのか?」
低い声がそう囁いて、あやすように背中を軽く叩いた。
「っ…!」
「ユウキには何も無いし勘違いかと思ったが、まさか本当にシュトラス家だったとはな。お前の証を見た時の俺の失望が分かるか?大切な奴が、あのシュトラスの血を引いてるんだからな」
首筋に熱い唇が当たった。

「ザギ…、っ!」
ズボンのボタンが外されチャックが下ろされる。ザギヅの手が背中からズボンの中へと入っていった。
「ザギヅさんッ!」
ライスの叫び声にザギヅの手を止める力はない。
ザギヅの部下たちがいきり立ったように騒がしくなって囃し立てていた。


ネコの冷えた身体がザギヅから熱を奪っていく。それと共に、ネコが体温を取り戻していった。
ザギヅがポケットから小さな入れ物を取り出し中から透明の粘り気のある液体を掬いあげる。それを尻の割れ目に塗り付けた。
冷たい感覚が身体に染みて条件反射のように身震いするネコに、
「初めてでも痛くないようにしてやるから安心しろ」
せめてもの優しさのつもりなのかそう囁いた。
「ふふっ…」
思わず笑わずにはいられないネコだ。
「何が可笑しい?」
問い返すザギヅに、別にと笑ったまま返す。
それが癪に障ったのか、その液体を今度は前にも擦り付けて、
「笑ってられるのも今の内だぜ?」
そう静かに囁いた。

その意味はすぐにネコにも分かった。
じんわりと熱を宿して身体が熱くなってきたからだった。


「用意周到なこった」
ネコの揶揄にザギヅが笑いを返す。
「言っただろ?俺は優しい男だ」
その言葉にネコが更に笑う。

不思議な事に、二人の会話はいつもの冗談のやり取りのように軽やかなものだった。


「なぁ、立ったままはお互いキツイだろ?」
ザギヅの首に両手を回したネコが後ろへと下がって誘う。
そのまま長テーブルに軽く腰を掛けて、履いていた革靴を脱いだ。それから中途半端に脱げたズボンを下ろし一気に下着姿になる。
太ももにピッタリと張り付くボクサーパンツがネコの肢体を余計に艶かしく引き立てる。下着のゴムに手を掛けて僅かにずり下げたネコが片膝を立てて誘うようにザギヅを見つめた。

肌蹴たシャツを着たまま両手をテーブルに付いて嫣然と微笑む姿は、まるで手馴れた娼婦のように見る者の劣情を刺激し、淫らで淫蕩な気配を纏っていた。
「何ならギャラリーをもっと集めたらどうだ?そっちの方が燃えるからな」
そう言うネコに驚きを隠せないのはザギヅだけではない。
そこにいる全員がその言動とがらりと変わった気配に戦いていた。

周りの動揺などお構いなしにネコが下着の中へ手を入れる。既に反応している自らをゆっくりと見せ付けるように扱いた。
「んっ…」
ザギヅを見つめる黒目が潤みを帯びていく。艶やかに熱を高めていく姿に、思わず喉が鳴った。
「…はっ、ァ…」
小さく開いた唇から甘い息遣いが洩れる。それに誘われるようにネコの唇を塞いでいた。



先程まで殺気立っていた場を今度は熱の宿った妙な空気が支配していくのだった。



■━━━━━━あとがき━━━━━━■
2014.10.28

    


 ***17『契約』***


宣言どおり、ザギヅは丁寧にネコの中を解していった。

塗った液体が体温で温まりゆっくりと中を熱くしていく。ぬめった音が響く度にネコが小さな声を上げた。
ザギヅが焦らすように指を追加するのを不満そうに睨んで、
「慣らすのは…ッ…いいからさっさと、ッ入れろって…」
足でザギヅの腹を突いて急かす。
その勝気な態度に笑いながら、その足を捕らえて引っぱった。
「ぅあ…ッ」
勢いで体勢を崩して背中から崩れる。その反動で指が深くまで入って前立腺に当たった。
「ッ…」
大きく震えた後、顔を横に背けて襲ってくる波をやり過ごす。
「優しくやるんじゃ…、無かったのか」
文句を零すネコが両手を顔の横に置いて降参するようなポーズだ。それが余計に相手をそそるという事を知っているかのようにザギヅに流し目を送った。
乱暴に指を動かすザギヅが確信したように、熱を持った中の一箇所を強く押す。
「ンあッ…ァ!」
途端、悲鳴が上がった。
「ザギ…ヅ…」
聞いた事が無いような甘い声でザギヅを呼ぶ。
手を伸ばして近づくザギヅの髪を引っぱって引き寄せた。
耳元に唇を寄せて、
「早くっ…っふ、…入れろって言ってんだろッ…!」
首に手を掛け身を起こす。
「入れてくれってお願いしてみろよ」
笑いを含んだザギヅの言葉に、ネコも小さく笑った。
ザギヅのシャツを捲って胸にキスを落とす。両手をズボンの中に入れて反応してるモノに触れた。
「ふふっ…、入れてくれよ…、ザギヅ」
猫なで声で甘く誘い掛ける。全くの抵抗もなく片膝立てて足を開くネコは見知っているネコじゃないかのように積極的だった。
「全然初めてじゃねぇだろ、お前」
呆れの混じった声で咎めたザギヅがネコの腰を引き寄せる。
足を肩に掛けて濡れた場所へ立ち上がったモノを宛がり、
「うァ…!!」
一気に挿入した。
「っ…ンぅッ、ッ…!」
荒い息を零して、その圧迫感に耐える。

丸々とザギヅのモノが収まるとふっと心地良さそうな笑いを浮かべた。
「っはァ…、中々、いい…よ」
快楽に素直なネコが艶やかに身体を揺らす。


その途端、ざわりと空気が揺らいだ。
ネコの姿態に目を奪われていた彼らを現実に引き戻すように、唐突にそれは起こった。

ザギヅもその変化に気が付き、目を瞠る。


真っ白で何の刺青もないネコの身体に赤い色が浮かび身体を取り巻いていく。
肩から胸へ、そして腰、臀部へと円を描き複雑に絡み合った大きな紋様が上半身に現れて、淡く発光するかのように鮮やかに色づいた。
「っぁ…アァッ、っでちまったか…」
自分の変化に気が付いたネコが小さく舌打ちして不快そうに眉根を寄せた。

どんな刺青さえ敵わないほど美しい赤がネコを束縛するかのように範囲を広げていき、触手を伸ばすかのように太ももまで伸びて、ようやくそれは収まった。
ザギヅのいう証がこのことだと知るのは容易な事だ。代々続く長たらしいシュトラス家の正式名が胸辺りに刻まれ、それがシュトラス一族である事を何よりも物語っていた。


見ていた彼らから驚愕の声が上がり、ざわめきが一層大きくなる。
あまりの出来事に目が釘付けになっていた。


「…大層なもんだな」
いくら憎かろうとその美しさは認めざるを得ない。
目を奪われた自分を誤魔化すようにザギヅが嫌味を言う。
「んっ…、分かるだろ?…ッこんなものを、入れられた俺の気持ちも…ッ、ぁ…」
緩く腰を動かすザギヅの動きに合わせて、ネコの小さな喘ぎが混じる。
不敵に笑って、
「刺青を入れた程度じゃ…ッぁ、消せやしない…」
諦めの言葉を吐いた。
快楽に濡れた黒い瞳が、まるで涙を溜めているかのように光を零す。


ザイードが囃すように口笛を吹いた。
「皮を剥いで飾っておきたい美しさだな」
その率直過ぎる感想に、
「何であんな、ッ…色気も何もない下世話な男を仲間にしたんだ?」
ネコが軽く視線を投げる。気持ち悪いモノを見たようにすぐに視線を外してザギヅを見つめた。
それを笑って流すザギヅだ。それなりにちゃんとした交友関係なのだろう。
「こっちに、集中しろ」
言って、腰を突き上げるザギヅに余裕が無くなってくる。
証が現れた途端に体内で熱量が増したのをはっきりと感じ取っていたネコだ。
「ふーん…」
舌で唇を舐めたネコが面白がるように鬱蒼と笑いを浮かべた。意図的に後ろを締め付けてザギヅを弄ぶ。
「ッ…!」
「はぁ…、ン…、俺はまだまだ、余裕だぜ…?」
甘い吐息でうそぶくネコの言葉を受けてザギヅの動きが激しくなった。
「いいからっ、さっさといけ」
指で透明の液を絡めて濡れた前を刺激する。上から下へ、焦らすように優しく緩やかに、そうして唐突に先端に爪を立てた。
「つッ…ァっ!」
強い刺激に高い悲鳴があがった。
批難するようにネコの目がザギヅを鋭く睨む。抑えられない熱を逃がすように小さく息を洩らし、目を細めて見つめるその表情は、酷く官能的で刺激的だった。
「お、前ッ…っ!」
ザギヅが苦悶の声を出して、耐えられなかったようにネコの中に熱いモノを吐き出した。
「ふ…、ッ…!」
大きく肩を震わせてやり過ごすネコだ。

その扇情的な姿態に、目を奪われない者などいないだろう。
人の劣情を刺激し堕落させる悪魔のように、居合わせた者の心の奥深くに明確な欲情を刻み付ける。

ワンが思わず顔を背けた。
こんな状況だというのに、ネコに邪まな感情を抱いた自分を恥じる。
だが、それはワンだけではない。
ザギヅの部下たちが仇のように騒ぎ立てていたというのに、今では荒い息で二人を見つめる者もいた。


ザギヅが中から引き抜くと同時に、白い液体がネコの後ろから滴り落ちる。
その感触を払うように軽く頭を振って床に足を降ろした。
「っ…、大したこと、ないな…」
まだイっていないネコが勝ち誇ったような笑みでそう揶揄する。
本来ならプライドを傷付けられたと怒る場面だろう。だがザギヅがあっさりと感服の言葉を述べた。
「お前には参った。堕とすつもりだったが見事にやられたな」
ズボンのチャックを上げボタンを留める。気分が晴れたのかすっきりした顔で捲くれたシャツを直すザギヅの手を思わず止めるネコだ。
「ふざけんな…、第2ラウンドやるに決まってるだろ。俺を満足させろよ」
終わらせるつもりのザギヅに対し、潤んだ目が熱を宿して絡む。
「お前が、ちゃんと宣言するならな」
ザギヅも負けてはいない。
テーブルの縁に寄り掛かるネコに迫り逃げ道を塞ぐように両手をテーブルに付く。間近にネコを見つめて、
「このまま抵抗するか、俺のモノになるか、はっきりさせろ」
声低く、命じるようにそう迫った。
唇が重なりそうな位置で互いに睨み合う。
「そんなに、…俺が欲しいのか?」
熱い吐息が唇をくすぐり、ザギヅを刺激する。
「じゃなかったら、…とっくに殺してんに決まってるだろ」
ネコの背中に手を回し、脱げ落ちたシャツを引き上げて周囲から隠すように肩に掛けた。
その労わるかのような動作に。

ネコが観念したように笑いを零す。
「分かったよ。ザギヅ」
呼び掛けの声はいつになく甘く、柔らかな声音だった。
目の前にある唇に軽く触れ、ザギヅの全てを受け入れる。
ゆっくりとした動作でザギヅの頬を撫で、首の後ろへと腕を回した。


「今日、この日を以って『白猫』は『Z』の配下に入る。
俺はお前のモノになってやるよ」
そう宣言し、まるで契約するかのように唇を重ね合わせた。


浅く、そして、ゆっくりと、深く。
互いの意思を確認し合うかのように舌を絡め合って、そっと離れる。
「これでいいだろ?」
「…あぁ」
ネコの微笑みに対して。
ザギヅが珍しいほど柔らかな笑いを浮かべた。
それは見目麗しい外見に似合う、光に満ちた笑いだ。日頃の陰険な片笑いとは違って、高貴で品に溢れた美しい笑みだった。


二人のやり取りはとても穏やかものだ。
それまでの剣呑さとは無縁のように静かで崇高な行為のようで、周囲が見守るように静まり返る。


その深秘な空気を破るのはザギヅの一声だった。
指を鳴らして部下を指差す。
「ワンやライスを解放してやれ」
注目した彼らにそう命じた。
驚く彼らを見向きもせず、ネコの首に唇を付けて、
「ここでヤルか、二人っきりでヤルか、どっちがいい?」
冗談交じりにそう訊ねた。
ネコの笑い声が高くなる。
「とりあえず、イかせろよ」
その軽やかな返答に、ザギヅも笑いを返す。
耳に口付けをして、
「お前が…」


「…お前のままで、…良かった」
そっと、小さな声で囁く。
熱い吐息と混じって吐き出されたザギヅの苦悩が、ネコの心の奥深くに熱く浸透していく。


ネコがザギヅを許したのも、ただ一重にそれがあるからだろう。


ふと。
ライスを見遣る。
困惑した表情のライスと目が合って、一瞬、ネコの胸に痛みが走った。
それも僅かな出来事で。

すぐに視線を戻したネコが再びライスを見る事は無かった。



ネコの宣言は『白猫』の完全なる敗北を意味する。
それに活気立った『Z』の面々が、勝利を騒ぎ立てていた。

部屋には酒が運ばれてくる。解放されたワンが部屋を出て行くのを止める者は誰一人なく、その饗宴は夜中まで続いていた。



そして、ライスは。
ネコがその場にいる限り、そこに居続けていた。


■━━━━━━2014.10.31━━━━━━■ 後記

    


 ***18『次の』***


柔らかなシーツの感触と、髪を撫でる心地よさがネコを覚醒させていく。
緩く開いていく目が、差し込む陽の光を受けて眩しそうに瞬き、耐えられずに顔を背けた。
「ん…」
枕の下へ手を入れて、頭を覚醒させるように僅かに揺らす。
それから髪に触れていた手の主を見るように、体の向きを変えた。

「…昨日はお互い散々な目に遭ったな」
相手が誰かを知って、ネコの顔に気まずそうな表情が浮かんだ。
顔を隠すように腕を持ち上げて口元を覆う。昨日の醜態を恥じているかのような仕草で、視線をそっと外した。
「俺は平気だよ」
顔にいくつかの痣を付けたライスが小さく笑んでネコの髪を再び梳いた。
以前と全く変わらない態度だ。それが心地良くて、上機嫌のネコだ。
髪を撫でるライスの指を摘んで絡め取る。
「ふふっ。失望してないのか?」
笑い方がいつものネコとは異なり、やけに艶っぽい笑い方だった。
昨日の余韻を引きずっているようで、ライスが困った苦笑いを浮かべる。
「ネコはネコだよ。俺の中のネコは何があっても同じだよ」
あっけらかんと答えた相手が信じられなくて、

「…、お前って案外、凄い奴だよな」
まじまじと見つめ返す。それから何を思ったか、唐突に掴んでいた指を口に咥えた。
「な、何っ…?」
「別に。何かムカついたんだよ」
甘噛みして指の形を確かめるように舌を絡め、ライスを試すかのようにくすぐる。
困った顔で耐えるライスの様子を愉快そうに見つめて解放した。

「本当はな、気が付いてたんだ」
ライスの襟首を掴んで引き寄せたネコが真剣な目だった。

「ケセの気持ちもザギヅの想いも、前から知ってたんだ。束縛されるのが嫌でずっと見て見ぬ振りをしてきた。いちいち面倒くさいだろ?傷付けるのも、慰めるのも。そのツケが裏切りって形で来るとは思わなかったけどな」
特に気にした風でもなく言って、ライスの唇を掠め取る。
唐突の行動に驚いていると、躊躇いを宿す目が弱った笑みを浮かべて見つめ返していた。
「束縛されたくねぇなんて言ってないで、ちゃんと話し合っておくべきだったって今になって思うんだ。
だからさ…」
間近にあるライスの目を見つめたまま、
「ザギヅが言うように、俺はお前に惚れてるかもな。お前を束縛したくないって思うけど、言っておくよ。」
淀みなく本心を伝えるネコが。

あまりに素直で。


それが愛おしいというには奇妙な気がして、その感情を何ていい表せばいいのかライスには分からなかった。ただ顔が、顔だけでなく全身が一気に熱くなったのを感じていた。
どうすればいいのか分からず動揺してると、それを見たネコが可笑しそうに笑う。
何かが吹っ切れたように明るい笑顔だ。


「浮気は程ほどにな。また犯すぞ?」
ドアが音も無く開き、同時にザギヅの声が二人にそう警告する。
その顔には昨夜のような憎悪はなく、柔らかな笑みが浮かんでいた。
「お前、嫉妬深いからな」
冗談を言うネコに、歩み寄ってきたザギヅが口付ける。
「ン…、ぅっ…」
寝起きのネコの眠気を覚ますかのように濃厚な口付けをライスの目の前でさらりとして、勝ち誇ったようにライスに視線を投げた。
「悪いな、俺のモノだ」
ネコの体に残る情事の跡を指で追いながら、上掛けを剥がしていく。
赤く腫れた乳首に触れて、軽く指で引っ掻いた。
「…つッ、ザギ…ヅ!やめろって!お前のせいで全身痛いんだ!」
ネコが苦情を言うのを楽しそうに聞く。
「『Z』の代わりに毎晩、跡を付けるから覚悟しておけ。そっちの方が俺の所有物みたいでいいだろ?」
「ん…」
迷惑そうに頷くネコが、僅かに声を漏らす。どうやら昨日の薬が完全に抜けていないようで、僅かな刺激でも体が熱くなるようだった。
「満更でもなさそうだな」
にやりと笑いを浮かべて、更にちょっかいを出すザギヅの手を払う。
「いいから休ませろって。俺は久しぶりだったんだ。なのにお前ときたら…、腹が立つ…!」
「俺のせいにするな、お前がせがんだんだろーが」
「俺がいつ…!」
二人の口喧嘩が唐突に始まった。
昨日の剣呑な雰囲気とはまるで違った口喧嘩だ。


これもある意味、親しい証拠なのだろう。二人の間の蟠りが、既に無い事を示していた。
それが、何となく微笑ましくてライスが笑いを浮かべる。

ネコとザギヅが揃って、可笑しなモノを見るようにライスを見遣った。
それが殊更、ライスを笑いへと誘う。



ネコが元気で、それが何よりも嬉しくて。
ただそれだけで、ライスは心の底から安堵していたのだった。




*****************************************



「兄さんが、思う以上に元気で僕は気分が悪い…」
その日の午後、何故か花束を持って洋館にやってきたユウキが、ベッドに座るネコを見て言った第一声はそれだった。
不快そうに手に持つ花をネコに投げつけて、そっぽを向く。
そのまま帰るでもなくネコの言葉を待つように突っ立ったままだ。
「ユウキ…」
小さい呼び掛けに視線を向けるユウキを手招きして、
「っ…!」
渋々、歩み寄ったユウキを抱き締める。
「辛い思いをさせて悪かった」
裏切ったのはユウキだというのに、そう謝るネコが。
不快で腹が立って、憎たらしくて。


涙が込み上げた。


「兄さ…」
それを悟られまいとして、余計に涙が溢れ頬を伝っていく。
「全部、俺のせいだな。お前を連れて家を出るべきじゃなかった。
お前の為だと言ったけど、本当はそうじゃない。あの家で…俺を慕って付いてきたのはお前だけだろ?お前を連れ出したのは俺の勝手な我侭なんだ。本当にごめんな…」
ネコの告白と共に抱き締める力が強くなる。
ユウキの涙が肩を濡らし、小さな染みを作っていく。

何故、涙が出るのか。傷だらけの兄を見て胸が痛む訳でもない。
抱き締められ、息が苦しくて。
ネコのシャツを引っ張った。

「僕は…」
ぽろりと口をついた。
「あの家ではおまけだった。外見だけがシュトラスで、中身は紛い物なんだ」
「そんな訳…」
「そうなんだよ」
ネコの否定の言葉を強い口調で奪う。

何故そんな話を、憎くて仕方が無い筈の兄に言おうと思ったのかさえよく分からない。
ただ。
懐かしい兄の体温が苦しくて、勝手に口から零れていくようだった。

「武術だって学術だって。何もかも兄さんだけが特別で、僕は兄さんが羨ましくて仕方が無かった。だから兄さんが出て行くって言った時、僕は嬉しかったんだ。対等になれると思って。特別な兄さんが、特別じゃなくなると思って」
「俺のどこが特別なんだ」
ネコの呟きをユウキが泣き声で笑う。
「兄さんは…、特別だよ」
そっと返す声が、深いユウキの想いを何よりも物語っていた。
「でも。兄さんはあそこじゃなくても特別なままだったんだ。こんなゴミ捨て場みたいな場所だというのに輝いてて、僕にはそれが一生手に入らない。『偽物』だと言われた僕とは違って、皆に尊敬される兄さんはどんどん先へ行ってしまうんだ。
それが…、僕にはどうしようもなく憎くて許せなかった」
握るシャツに力が入る。
ネコの唇が慰めるようにユウキの頬に優しく触れた。
「僕だけが汚れて、兄さんは綺麗なままなのが余計に惨めで…。
僕は兄さんの弟でいる資格が無いんだ」
ネコのぬくもりを感じて、一生涯言うつもりも無かった言葉が自然と口から零れた。


静かな口調で語るユウキはまるで小さな子どものようだった。
ユウキは変わってなどいないのだ。
昔のまま、心優しくていつでも後ろを付いて来た小さな弟のままだった。


「俺な、お前が思うような兄じゃないぞ」
ユウキの細い背中を撫でて、首に顔を埋める。
「ユウキが知らないだけで俺はずっと父親の玩具だ。毎晩あいつにいい様にされて、あいつが命じれば重客の下の世話だってしてたんだ。これのどこが綺麗なんだ?全然だろ?」
ユウキからはネコの顔が見えない。
でも恐らく笑っているだろう事は容易に推測できた。

身を離すユウキがネコの顔を見つめる。
既に過去を忘れ去ったネコの目に何の悲しみも、苛立ちも宿ってはいない。


昔と変わらない、綺麗なままの兄がそこにいて、
「やっぱり、ムカつく…」
思わずそう呟くユウキだ。
「ふふっ。何かそう言うお前が段々可愛く思えてきたよ」
甘い笑い声を洩らす兄を軽く睨む。


一体、何を憎んでいたのか。
顔を見る度に憎くて憎くて仕方が無かったというのに、それが酷く下らない事のように思えて、ユウキも釣られたように小さく笑った。
「僕を、許してくれるね?」
そんな言葉に。

笑みを浮かべたネコが細い体を引き寄せる。倒れこむようにネコの体に包まれて、体ごと受け止められた。深い抱擁に全ての想いが篭められているように感じて安心する。


ネコの首筋や唇の傷、シャツの隙間から見える赤い跡は間違いなく自分のせいだろう。
その事に罪悪感すら抱かせず包み込んだ兄に。

敵うはずがないと今更のように悟った。


それは、言葉以上の優しさだった。




■━━━━━━2014.11.08━━━━━━■

    


 ***19『しろねこ』***


楽園で人が死ぬことはそれほど珍しい事でもない。
かといって死体がそのまま放置されるという事はないが、死体を見つけた場合は死体置き場と呼ばれる場所へと運ぶ事が通例となっている。
そこから先は彼らの関知すべき所ではなく、その後、遺体は繁華街にひっそりと運ばれ埋葬される。
誰に見送られる事もなく処理される事が多い楽園の特質を考えると、アオイの死は多くの者に見送られ運ばれていったのだから随分と丁寧な埋葬方法だった。

『白猫』の気持ちを重んじ、死者に敬意を払うザギヅの姿勢は誰の反感も買う事はなかった。

ましてやグループ間の争いにおいて、仲間の誰かが死ぬ事は当たり前に起こり得ることであり、それが即ち新たな争いの火種を生む訳でもない。
それでも敢えて厳かに埋葬したザギヅは、長年グループの頂点に立ち続けてきた器の持ち主といえた。


アオイの遺体が埋葬された後、ネコは自責の念からか、しばらく部屋に篭ったままであった。



そうして、『白猫』が『Z』の配下になって1週間が経っていた。
『白猫』のメンバーはほとんどが去り、残ったのは数名だ。元々ネコの顔すら知らずにメンバーになっている者もいるくらいだ。『Z』に属する『白猫』は飼い慣らされた子猫といっていいほど無力で無価値なグループだった。むしろ残った者がいる事の方がネコにしてみれば驚きだろう。

「あ、ネコだ」
道を歩けば誰かがそう言う。
「え?あいつ無印のニコじゃねぇの?ネコは『白猫』のヘッドだろ?」
一方で、そんな声も少なくない。
『白猫』の敷地に『Z』の者が多く入り込んだお陰で、顔見知りが増えネコが無印を装う事が難しくなっていた。
それに加え、
「ネコ、すっげぇ色っぽいよなぁ。ヤりてぇなぁ」
そんな言葉が飛び出すのも珍しいことでは無くなっていた。

敢えて聞こえるように言ってるのか、そういう言葉を耳にする度に鳥肌が立つネコだ。
誰彼構わず狙われている気がしてぞっとする。
それもこれも、毎晩、跡を付けまくるザギヅのせいだろうと思っているネコだが、実際の所は少し違う。
ネコの醸し出す雰囲気が以前と違う所が大きいだろう。

ザギヅとの出来事はいい意味でネコを吹っ切っていた。
そのお陰でユウキとの仲を解決でき、そしてライスとの関係も変化したのだから、それなりのプラス面もあろう。
それ以上に。
長い間、色事とは無縁だったネコだが毎夜のようにザギヅに抱かれれば否応無しにも本来の姿が引きずり出されるというもので、その色気を隠し切れていない状態だった。
ふとした動作の一つ一つが妙に婀娜っぽく、身体に残る濃厚な跡が余計に見る者を惑わせた。

「冗談言うなよ、ザギヅさんに殺されるよ」
軽口を叩く彼らを横目にネコが通り過ぎていく。
方々で刺さる好奇の視線に、これからは一人歩きがしにくくなると思って小さな溜息を付くのだった。



「よぉ…久しぶりだな…」
リンに会いに行ったネコが、その場に居合わせたワンに遭遇した事は何も意外な事ではない。

いるだろうという目測も篭めて行ったのであって、その後全く洋館に寄り付かないワンが気になっていたからだった。
「ネコぉー、『白猫』は大変だったみたいだけど、大丈夫?」
包帯が巻かれベッドに横たわるリンが明るい声で訊ねる。足にはギプスが嵌められ、腕から管が伸びる様は、回復に向かっているとはいえ痛々しく、そのまま言葉を返したくなる様相だ。
「俺は平気だよ、心配掛けたな」
歩み寄ったネコがリンの頬に軽く触れて言葉を返す。手土産をベッド脇において、リンに差し出した。
「私はネコが元気ならいいんだ〜」
嬉しそうに受け取るリンに微笑んで、目の前でじっと睨むワンと視線を合わせる。

互いに言葉を発することなくしばらくそうしていると、
「兄貴、ネコは私の大事な人だよぉ」
リンが軽く、けど真剣な顔で忠告した。
それがきっかけであったようにワンが小さく笑いを零す。
「あー、アホらしいぜ!」
僅かに驚くネコに手を差し出して、
「俺はお前に付いてくぜ?『白猫』が『Z』のモノだろうとな」
敢えてシュトラス家である事には触れずに、握手を求めた。

その想いを受けて、申し訳ない気持ちに陥るネコだ。『白猫』はただの烏合の衆だろう。それでもそれを信じてきた者たちを守ることは出来なかったのだから、不甲斐ない自分を痛感する。
そして、シュトラスである事を『なかったこと』にしたワンの心意気に感謝していた。
「ネコを名乗ったのはな、家を出た時に昔のことは全て捨てようと思ったからだ。俺の、本当の名は」
「そんな事はどうでもいい。お前は『ネコ』なんだろ?それでいいじゃねぇか」
「…ワン、…けど」
何か言おうとするネコの手を強く握る。
「って」
「それより、ケセは平気なのか?あいつ、何か切羽詰まってるんじゃねぇの?」
言葉を奪って、もう一人を気に掛ける。

洋館に寄り付かないワンは知らないが、あれからケセも普通にネコの見舞いやら何やらで訪問していた。
言葉を交わすこともあり、以前と特に変わった様子もない。
「どうだろう?そうは見えないな」
ネコの思案気の顔をじっと見つめるワンだ。
「お前の言葉って、ほんと当てにならねぇよな。大体鈍すぎるんだよ。あんなことになる前に何かおかしいって思わなかったのかよ」
「そう言うな。俺だって、ケセが俺を好きな事くらい気が付いてた」
その言葉を聞いて苛立ったように握ったままだった手を振り払って解く。
手をズボンで拭いて、
「バーカ!そうじゃねぇよ。ハギの事に決まってんだろ!」
呆れた口調で怒鳴った。
「お前が無事で、ハギだけ殺された時点でおかしいだろうが!俺は何度も忠告した筈だぜ?」
はっきりと指摘されて口をつぐんだ。
「大体な、無印を簡単に引き入れるからいけねぇんだよ。周りの反感買って当然だろーが!それでお前と来たら延々とライスに構ってやがる!ケセが面白くねぇと思うのも当たり前だろ!」
「それにお前な」
ネコが押し黙ったのをいい事にワンの文句が延々と続く。
「兄貴〜」
「うるせぇ、今説教中だ」
口を挟むリンに短く言って更に続けようとするワンに、
「そんなに力説しなくてもネコが大事なのは分かったよぉ」
そう言って、仰天させた。
「…っ!俺が、いつ、こんな奴を…」
「たったいま」
「リン!頭をよく使えよ!俺は今こいつを説教してんだよっ!」
「照れちゃってぇ〜、私は全然いいよぉ。兄貴ならネコを任せられるもの」
のほほんとしたリンの言葉は場を癒すのに最適だ。
ワンが苛立ちを発散するように髪を掻き毟る。それからネコを見て、
「まぁ、いいよ。今お前が満足なら」
説教を続けることを諦めた。
「俺自身は変わらないさ。アオイの事は凄く残念だったが」
「お前のせいじゃねぇだろ。あいつ無謀だから…」
ワンの慰めの言葉が途中で途切れ、懐かしむ顔へとなる。心に傷を負ったのはワンも同じだろう。短い期間とはいえ仲間として過ごしてきた数年は、親密な期間だった。
アオイが死んだという実感すらまだ沸いていない。

「シノはどこへ行ったんだろうな。繁華街に逃げ込んだのか?」
ふと思い出したように上を仰ぎ首を傾げる。
「さぁな、シノはそういう事には敏感だから。年齢的に楽園を出た所で不思議じゃないし、丁度いい頃合だったのかもな」
然程気にしていない風にネコが答える。
「ふーん」
相槌打ちながら考え込むワンもそれほど気にしてはいなかった。

シノの性格を考えれば十分にあり得る話だ。ネコとは違った意味で自由に行動するシノがザギヅの下に付くことは考えにくい。シノが『白猫』にいるのは一重に『ネコ』の存在があるからに過ぎず、それも今回のことで違うモノになったのかもしれない。
「シノに会えないのは残念だなぁ。シノは面白くて好きなのにぃ」
ワンが目を剥いてリンを見下ろす。
「お前の好みは何で変なのばっかなんだ!シノだけはよせ!!」
ベッド脇を何度も叩いて、病人相手だというのに大声で怒鳴った。
その反動でベッドが揺れるのにも気付かず、妹を諌める。
「兄貴ぃー、うるさいよぉ」
点滴の繋がった腕が僅かに動き、すぐに諦めたように力を失う。リンが迷惑そうに強く瞬きをして、ワンに向かって軽く舌を出した。
「マザーみたい…」
「お前が馬鹿な事を言ってるからだ!」
喧嘩するほど仲がいいとはよく言ったもので、二人の関係にネコが小さく笑う。


その様子は、いつもと変わらない日常だった。



*****************************************




「…えぇ、ですから」
「細かい報告はいい。君は十分やってくれたよ」
高い機械音が室内に響く。時折入る無線から、状況の報告と指令を求める声が静寂な部屋に響いた。
艶やかな輝きを放つ金属性のデスクを指でコツコツと鳴らした男が、目の前に積まれた書類にサインをしていく。
「今日はジギラの方に足を運ぶ。ついでに周辺も通る予定だ。あの始末はちゃんとしたんだろう?」
薄い紙を一枚めくって、床に畏まる男へと飛ばす。
顔をあげた彼と視線を合わせた。
その目は、見ているだけで震え上がるような鋭さと冷徹さだ。視線を受けた彼が目を合わせることを恐れたようにすぐに顔を伏せる。
「盗聴器は全て回収済みです。他、情報提供者も処分いたしました」
「身体は無傷だったか?」
「身体の方は未確認ですが恐らく無傷でしょう。位置情報は問題なく作動中です」
気配で男が立ち上がるのが分かった。
常に愛用している万年筆を机に置く無機質な音が顔を伏せたままの彼の耳にも届く。

「恐らく、などという言葉は使うなと言わなかったか?しかし確認の機会が無かったのだろう、今回は許す。ところで…」
目の前に来た男が屈んで、彼の髪を掴んだ。
強引に上を向かせた男が笑みを浮かべる。

他者を蹴落とす力強い強者の笑みだ。
中年の男とは思えない眼光の鋭さと若々しい雰囲気を持ち、顔に刻まれた皺ですら男を力強く魅力的にさせていた。
美しい白銀の髪に、目も覚める青い瞳がよく映える。
気品の溢れた顔に酷薄な笑みを乗せて、
「あれに白猫をプレゼントしようと思うんだが、君はどう思う?」
そう訊ねた。

それは大層な嫌味で、あれと呼ばれた彼がもっとも傷つく方法だと知っての事だろう。
「とても喜ぶと思います」
男に答えるように嫌味な言い回しで傅く男が返す。
「君は知らないだろうが、あれは子どもの頃に白猫を凄く可愛がっていたからな。喜ぶ様が目に浮かぶ。
今は『ネコ』と呼ばれているのだろう?不思議なものだよ」
「弟がそう呼んだことがきっかけのようです」
「あぁ…、そうだったか」
思案するように顎に手を置いて動きを止める。
弟の存在をすっかりと忘れていたのだろう。同じ外見の、見てくれだけの息子が欲しかった彼にしてみれば、自然受胎でもない第二子は『ついで』に過ぎない。

「『ネコ』か。いいネーミングだよ。自分が飼い猫に過ぎないと知り、絶望に打ちひしがれたその夜はさぞ甘美な夜になろう」
「えぇ、そうですね」
動揺も何も見せず、顔を伏せたまま相槌を打つ。
「いつ頃、送りましょうか?すぐに手配しますが、お好みの品種などございますか?」
伺う彼を優しい笑みで見つめて、
「まだいい。もう少し、自由を満喫させてやる。
それが深ければ深いほど逃れられない鎖を実感するのだからより楽しめるだろう?」
残酷にもそう言った。
「その通りですね」
「所詮、シュトラスという宿命からは逃れられやしないのだよ。リアトスがどんなに足掻こうとな」
立ち上がった男が机へと戻っていく。
万年筆を手に取り、ペン先を彼へと向けた。
「シノ…、君もな」
顔をあげて小さく笑んだシノを見て、満足そうに腰を降ろす。
何事も無かったように再び書類にサインを描いていった。




男にしてみれば『血だまりの楽園』ですら小さなゲージの中に過ぎない。
そして、その自由も。

与えられた自由に過ぎないという事を、ネコは知る由も無かった。


(完)


■━━━━━━2014.11.16━━━━━━■ 後記

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